住民たちの濃密な紐帯が物を言うシークェンスがあります。家屋・倉庫の建築です。
ある新婚夫婦(あるいはその子どもたちといっしょに独立の家庭を築こうとしている若い夫婦)のために、村人が総出で倉庫を建築することになりました。
もちろん建設機械や外部の専門業者に頼りません。おそらくは設計や製材から、村人だけで手がけたのでしょう。
なかでも、敷地に木材を並べて部分的に組み合わせて棟上げをおこなうシーンが圧巻です。全員の一致協力、意思と呼吸の統一が欠かせないのです。
集まった人びと服装は、アーミッシュ然として、女性は紺か青系統の色合いのワンピースドレス、男性は白か青のシャツにダークトラウザーズ(黒系のズボン)。
たぶん、そんなプレインドレスが彼らの通常の出で立ちなのでしょう。
この家屋・倉庫づくりで、木工に巧みで大工仕事が得意なブックは、けっこう活躍します。。
男たちはそれぞれ、みんなに調子を合わせるだけでなく、個人がそれぞれ得意分野の作業で活躍しています。これがドイツ風「プロテスタンティズム」の心性と行動スタイルなのでしょうか
ジョン・ブックはエリ・ラップの家にともに暮らします。
家のなかでも、村の行事や農作業のなかでも毎日顔を合わせるブックとレイチェルは、互いに相手を意識し、惹かれ合うようになっていきます。
けれども、ブックは、一時的にアーミッシュのなかに「緊急避難」しているものの、結局のところ、外部の世界の秩序や規範にしたがって生きる人間なのです。
まして、ブックが犯罪に対峙する刑事(警察官)としての意識や習性を捨てないかぎり、2人のあいだには、越えがたい深い溝が横たわっています。
日々の生活の積み重ねのなかで人びとの意識やメンタリティがつくられて、パースナリティ=個性がつくられていくのですから。
警察はあくまで、そのメンバーが武器を常時携行し、犯罪や暴力に立ち向かう権力機構です。犯罪や秩序破壊の暴力に対抗するための強制装置(暴力)を備えた組織です。
しょせん、非武装・非暴力・非権力組織のアーミッシュとは相容れない存在でしかないのです。
ところで、以前からレイチェルに思慕を寄せているホッホライトナーは、苦々しい思いでレイチェルに接近するジョン・ブックを眺めています。
ホッホライトナーとしては、外部世界から来たブックに対して恋敵(ライヴァル)として嫉視するというよりも、レイチェルの生活と気持ちを掻き乱す攪乱要因と見なしているようです。
早く村から立ち去ってもらいたい、という態度を何かにつけて露わにします。
とはいえ、この三角関係のなかで、3人とも強い自己抑制と節度(禁欲的態度)をもって互いに接しているのはみごとです。
あの家屋・倉庫の建設でも、ブックとホッホライトナーはそれぞれ得意の技能を発揮し、補い合い、協力し合いました。それぞれが仲間共同体のなかで、自分の役割を忠実に(厳格に)こなしているのです。
しかも、そういう感情の抑制には無理が見えません。
それは、個人の欲望やぶつかり合いむき出しの「現代アメリカ文明」の立場からは、個人の共同体・集団への埋没と見なされるかもしれません。
しかし、私にとっては、おのれの「分」「節度」を守るプロフェショナリズムに思えてなりません。