1944年、マウトハウゼン収容所は連合軍によって解放された。アンヌはかなり衰弱していたが、生き延びることができた。ところが、夫のシモンは1年以上前にガス室に送られて処刑されていた。それまで、絶望的状況に耐えながら楽団を結成しヴァイオリンを演奏していたアンヌだったが、シモンの処刑の日からヴァイオリンを捨ててしまった。
1945年、アンヌはパリに生還した。パリはまだ窮乏と混乱のなかにあった。シモンとともに自分の人生の希望を失ってしまったアンヌ。それでも、パリ郊外の駅で泣く泣く列車から「捨てた」わが子の思い出だけが残っていた。
それで、その駅の近辺を尋ねて歩いたが、愛児のその後の消息は不明のままだった。息子の消息を知りたいという願いだけで、アンヌは生き続けることにしたようだ。糧を得るために彼女は、音楽の才能を使うことにした。だが、ヴァイオリンは2度と手にする気はなかった。手にしたのはアコーディオンだった。
やがて、以前の楽団メンバーと再会したが、困窮したパリで演奏会を開くチャンスは失われていた。楽団は、町から町を流れて、その日の糧をようやく手に入れるありさまだった。
アンヌは、街角や教会(結婚式)、酒場やレストランなどで演奏して暮らしを立てた。そして、金銭的・時間的なゆとりができると、あの鉄道駅を訪れた。そこで愛児の消息を求めて、近隣を歩き回るのだった。だが、幼子の消息は杳として知れなかった。
いつしかアンヌは、別れた愛児の消息を尋ねることを諦めた。それでも、しばしば駅を訪れて、プラットフォームに花束を捧げて物思いに沈むようになった。
モスクワでは、タチアナは夫の死から立ち直ろうとして、バレエ学校の教師になった。バレエの指導と研究に打ち込む彼女は、愛児セルゲイを教室の片隅に置いて面倒を見た。やがて、教室の生徒たちに混じって、セルゲイもまたバレエを学び始めた。
美貌と才能にあふれたタチアナには、新たなパートナーが現れ、彼は母と子のバレエの研鑽を献身的に支えた。
両親のバレエの才能を受け継いだセルゲイは、ソ連のバレエ界でまたたくまに頭角を現した。天才少年は国家の支援プログラムに選抜され、タチアナも教授陣の一角を占めるプログラムのもとで英才教育を受けることになった。そして、ソ連バレエ界の名誉を担うトップエリートになっていった。
捕虜収容所を出たカール・クレーマーは、飛ぶようにベルリンに帰った。だが、ナチスが住民を道連れに最期まで頑強に抵抗した拠点となった都市は、熾烈な爆撃、砲撃、市街戦で瓦礫と灰燼だらけの廃墟となっていた。
クレーマーは、婚約者が住んでいたアパートに入り込んで彼女を探し、運よく再会することができた。2人は結婚して、ささやかな家庭を築き始めた。
平穏を取り戻したクレーマーは、指揮者として音楽活動を再開した。戦争と捕虜生活という辛酸をなめた彼のセンスは、さらに一段と研ぎ澄まされ、戦災から復興していくドイツとヨーロッパの音楽界で高い評価を受けるようになった。
だが、どんなに名声が高まっても、実績を積み上げても、クレーマーは自分自身(過去や人生)について言葉を発することはなかった。ただ音楽だけをつうじて自分を表現し、社会と結びつくだけという姿勢を、彼は頑なに守るようになった。
そのため、彼は「ミスター・アイスマン(氷のようにつめたい男)」というニックネイムをもらうことになった。そこには、緻密で正確で、わずかな隙間さえない音楽への絶賛も含まれていた。
クレーマーの立場を代弁したのは、妻のマクダだった。
アメリカに生還したジャック・グレンは、シジャズオケの仲間たちや家族に温かく歓迎してもらった。ジャックの帰還を祝うパーティを窓越しに眺める食品店主夫妻のもとには、その直後、陸軍からの慰問将校が訪れた。息子2人がともに戦死したという悲報を伝えるために。
それから数年、グレンはアメリカのジャズ界きっての有力者になっていた。アメリカの世界覇権とともに、アメリカの文化と音楽は世界中を席巻し、ジャズもまた世界の人びとの心をつかむようになっていた。ジャック・グレンの家族は富豪の一角に食い込んだ。
彼の息子は、富や父親の人気や人脈を踏み台にして、有力な音楽界、テレヴィ・映画界のプロデューサー(ディレクター)になっていった。その妹は、父親の音楽家の才能を受け継ぎ、才能にあふれた声楽家になっていった。
フランスのディジョンでは、エヴリーヌは居場所がなかった。ナチス将校との浮名(それゆえまた「裏切り者」の烙印も)が伝わっていたからだった。そのため、父親はエヴリーヌにつらく当たった。母親も娘を庇い切れなかった。
追いつめられたエヴリーヌは自殺してしまった。
深刻な罪悪感を背負ったエヴリーヌの両親、とくに父親は、彼女の娘、エディットを深くいつくしみ、大事に育てた。