さて、しばらくは法律学の話題になるので、面倒な理屈は苦手だという人は、目次から物語の中身から読んでほしい。
「クラスアクション」とは、1960年代からアメリカ合州国や西ヨーロッパで出現し広がった民事訴訟や行政訴訟の新たな形態だ。
企業や団体、行政機関などの活動が多数の市民・住民の権利や利益を侵害した場合に、こうした被害者集団の法的利益や立場を代表して、あるいは原告団体を結成して、被害の原因となった企業・団体や行政機関を相手取って、訴訟を提起し、法廷闘争をおこなうことを意味する。
日本では、公害や薬害などの被害者や住民代表などによる訴訟が、これに当てはまる、あるいは近い形態となってきた。
普通、法制度では、民事訴訟や行政訴訟では、特定の個人や団体が自分たちに固有の権利の回復や承認を求めて裁判を起こすが、クラスアクションでは、社会のなかで同じような状況(権利侵害)に置かれた市民集団(全体)を代表して訴訟をおこなうことになる。
したがって、裁判の結果は、原告となった特定の個人の法的な立場や権利だけでなく、同じような状況にある市民集団(クラス)全体についての法的な立場や権利を社会的・制度的・政策的に認定し判断するものとなる。
最近の日本では、「薬害肝炎」「薬害エイズ」問題の訴訟が、これに当たる。
裁判の結果=判決を受けて、政府・行政機関や薬品会社などは、法理論上、あらゆる被害者の救済と今後の事件再発防止について責任を負うことになった。
以前には、「水俣病訴訟」「イタイイタイ病訴訟」などがあるが、日本の社会全体として政府や企業がしかるべき責任を負うというような結論、解決策にはいたってない。
日本では、つい先ごろまで、制定法万能主義がまかり通り、法律の曖昧かつ一般的な規定(規制)を、施行規則や中央官庁の政令とか通達によって具体的内容を補っていくシステムになっていた。それは、中央官庁やそれと癒着する政権党に巨大な影響力とか規制権、予算分配権・利権を与えるメカニズムになっていた。
ゆえに、住民や被害者無視の政策や立法政策がまかり通っていた。
ところが、ヨーロッパやアメリカでは、法律は制定時の認識や政策の限界をもっていて、また抽象的で一般的な文言による規制なのだから、裁判や訴訟活動、市民民衆の合議制度によって、具体的内容を盛り込み、かつ大胆に補完・修正していくという立場が強い。そこで、企業や行政機関の活動の効果が、広く社会的な影響力をおよぼすものだという認識が深まるにつれて、集団訴訟や集団代表訴訟、つまりクラスアクションが公式に制度化されてきた。
日本では、その定着・制度化がかなり遅れたようだ。
この映画では、自動車会社の設計ミス――自動車の構造的な欠陥――という過失によって、妻子を失い、自分の健康も失った原告が、自動車会社に対して過失責任を追及し、その損害賠償(と精神的苦痛の補償)を求める民事訴訟を起こした。ということで、何やら面倒くさい法律学の話になる。
ここでは「不法行為」「不法行為責任」が問題になっている。
不法行為は、必ずしも「違法行為」ではない。違法行為は、法が定める社会秩序(法秩序)や正邪の規範に違反する行為だ。刑事犯、経済事犯、行政事犯などがある。もとより、不法行為はそのなかに違法行為も含む。
「法: Recht 」には、個人や団体の「正当な権利」という意味がある。そこで、不法行為は、他者(個人や団体)の権利を侵害し、利益を毀損する行為ということになる。
先進諸国の市民法(民法)では、故意または過失によって他者の人体・生命または財産に損害を与えた――これには人格権や名誉、精神的な健康に対する侵害も含まれる――場合には、その行為者は、損害賠償の責任=義務を負うものと規定されている。
損害賠償とは、死亡や障害・苦痛など身体への損害とか、物的な財産の毀損、精神的な苦痛、名誉の毀損に見合った、経済的な補償(金額の支払い)や代償行為によって、損害を埋め合わせ精神的に慰謝することだ。
不法行為による損害賠償は犯罪にも適用されることが多い。今では、刑事犯罪でもあり経済犯罪でもある行為、たとえば横領や詐欺などの犯罪は、きわめて割に合わない犯罪となっている。というのは、刑事犯としての服役を終えたのちに、こんどは民事的な損害賠償を追及され続けるからだ。
刑期を終えて社会復帰しても、一生、借金返済に追いかけられるからだ。破産しても、破産状態から回復するたびに賠償を徴求され続けることになる。逃れる道はない。