都市国家の軍事力は、はじめは自発的に武装した住民たちからなる軍隊が担っていました。まもなく、貨幣報酬と引き換えに雇われた戦争の専門家=傭兵団が都市国家の軍事を担うようになります。
北イタリアの多数の都市国家は合従連衡して、つまり移ろいやすい(裏切りや二枚舌、三枚舌の)同盟を組んで、都市国家をしのぐような「大きな王権」がイタリアに出現するのを妨げてきました。
足の引っ張り合いです。
北イタリアという、ヨーロッパで最高の富、最も華麗な文化・芸術、洗練された技術が蓄積された地域が、多数の小さな都市国家に分裂して抗争している。
この状況は、近隣の有力な諸王権からみれば、「鴨がネギを背負って歩いている」ようなものです。しかし、先進地帯の北イタリアの都市は強力で、簡単に手を出せない状況でした。
下手に手を出して戦争が長引くと王室財政はすぐに逼迫して、王は身分議会を召集し貴族や都市商人に資金を懇願することになります。
そうなると、身分団体が集まるせいか、王権を支える諸侯の同盟(力関係)が崩れて、新たに王座を狙う有力な君侯が出現してくるのです。
反乱や市民革命が、王室の財政逼迫のため召集した身分議会の前後に発生するのは、そういう事情からです。
ところが、15世紀末から16世紀半ばになると、イベリア半島・地中海とガリア(フランス)に、当時としてはとてつもなく大きな王権国家がつくり出されていきました。軍事革命と財政革命が手を携えて始まったのです。
その王たちは、やはり当時としては飛びぬけた財政収入をもとでに、傭兵からなる巨大な常設の軍隊(1万から数万の兵員規模)を組織しました。
当時、1万という人口、兵員数は、現代の500万にもおよぶ兵力に匹敵しました。
北イタリアを除けば、人口1万を超える都市は、パリ(6万前後)やブルージュ(2万)、ハンブルク(1万2千)など数えるほどわずかでした。イタリアには、人口1万を超える都市が20近くもあったのです。
とにかく、イタリアのすぐ近くに、頭抜けて強大な軍備をもった2大王権が並び立ち、互いに覇を争い、勢力圏の拡張を競おうと準備していたのです。
すでに14世紀には、カタルーニャーアラゴン連合王権が、バルセロナの富裕貿易商人を支援しながら、地中海西部を征圧し、サルデーニャ、シチリアとナーポリの王位を手に入れました。
カタルーニャ王国は、やがて1世紀のちにエスパーニャ王国に統合されることになります。
エスパーニャ王国は、レオン=カスティーリャ連合王国を中心にして、カタルーニャ=アラゴン、アンダルシーア、バレンシーア、ナヴァールなどの諸王国が寄せ集めらてできた連合王国でした。
図体は巨大でしたが、内部に分裂要因をいくつも抱え込んでいました。事情はフランス王国でも同様でした。
とにかく15世紀末には、カスティーリャ王室が、イベリア半島全域とこれらの地域をエスパーニャ王国として支配しました。そして、大西洋航路を開拓しながら、南アメリカをも征服していきます。