やがて19世紀の後半になると、辺境のサルデーニャの君侯がサヴォイとピエモンテを支配し、イタリア統合の拠点として成長していきます。
サルデーニャ公はトリノを拠点にサヴォイ王として、イタリア統一を求める諸勢力に担がれながら、1860年頃から、シチリアを手始めに、南から北に向けて征服活動を進めます。
しかし、経済的に有力な北部の諸都市は、「大きな国家」への統合に頑強に抵抗し、抗争し合います。それをまた勢力争いをし合う域外列強が、後ろ盾になって操るという状態が続きました。
やっと19世紀の末になって、北イタリアを含めたイタリアの国民国家としての統合が「形ばかりで」達成されました。
が、統合・統一は名目上のもので、イタリア域内の政治的・軍事的・文化的な統合はなかなか進展しませんでした。
新たな王国の首府となったローマとその近辺では、多数の教皇領が分立し、ヴァティカン=ローマ教皇庁が、世界中に大きな影響力をおよぼす独自の権力として、王国の政治や行財政に隠然、公然と関与・介入しました。
経済的には北部の有力諸都市(ミラーノやフィレンツェ、ジェーノヴァなど)が、ローマをはるかに凌ぐような通商と産業の力をほこり、政治的首都ローマを圧迫し、その指揮権をはねつけていました。
そして、ローマの南には、旧弊な因習を引きずっている貧しい諸地方が、さらに分裂的で分散的な要因として振る舞っていました。
すでに17世紀から、ヨーロッパ各地の商業資本は国家という鎧によって武装・結集しながら、世界市場での利権・権益をめぐって闘争・競争していました。
すなわち、諸国民のあいだの競争、国際的通商戦争です。
ところが、イタリアは長らく軍事的・政治的に分裂したままで、19世紀末に国民国家が形成され始めたものの、20世紀になっても域内の統合がうまく進みなせん。
幼弱な国家は、イタリア資本の国際競争を有効に支援できませんでした。
国際的競争に乗り遅れた上に、世界市場の大半はすでに列強諸国によって分割されてしまっていました。