現代世界では著しく「情報化」が進んで、膨大な量の情報が私たちの目や耳を足早に通過する。社会や生活をめぐる情報は細分化され精緻化され複合化されている。
映画の世界でも、物語やら場面構成やら状況設定が複雑化・精緻化し、展開のスピードも目まぐるしくなっている。私はすでに60歳を過ぎているせいか、新しい映画の筋立てや場面展開を理解するのが、どんどん難しくなってきている。
ときには感動する暇もないほどで、観終わったあとで頭が混乱することもしばしばだ。情報の密度と展開の速さについていけなくなってきている。
古典的な映画作品を観るときに安堵感を覚えるのは、物語展開が簡明でわかりやすいからだろうと思う……一方で、現代映画に比べて「物足りなさ」を感じることもないではない。情報量と速さと複雑さに圧倒されるような作品に馴染みかけているせいかもしれない。
今回取り上げる作品は、2008年制作・翌年公開のフィンランド映画『ヤーコブへの手紙』――原題 Postia Pappi Jaakobille(フィンランド語で「ヤーコブ神父への手紙」――だ。無駄な要素をすべて切り取った簡明な物語だが、そのせいか心に深い感動の余韻が刻み込まれる。
姉の夫を殺害した罪で終身刑となっていた女囚、レイラは、ある牧師の恩赦の嘆願が認められて釈放された。だが、出所後どこにも行くあてがなかった。
ところが、片田舎に住んでいるヤーコブ牧師が身の回りの世話をしてほしいということで、レイラを雇いたいと申し入れてきた。気が進まないレイラだったが、身の寄せ場もないこととて仕方なくヤーコブ牧師の住居を訪ねてみると、牧師は盲いた老人だった……。
これまでの過酷な運命から、レイラは世間との関係を頑なに拒絶しようとしていた。そんな態度の行きつく先は「死」すなわち自死しかない。そう覚悟を決めていたレイラは、ヤ―コブ神父とのかかわりも避けようとした。
そんなレイラから見ても、僻村で人びとから忘れられたように暮らす神父は社会から孤立した生き方をしているように見えた。そんな神父の唯一の生きがい(仕事)は、教会あてに届く手紙を読み返答の手紙を送り返すことだった。
災厄苦難あるいは耐えられないほどの孤独に向き合うとき、人は何を支えに生き続けようとするのか。人が生きる意欲を失いかけたとき、何が支えになるのか。こういう問いに正面から向き合いながら、すこぶるシンプルな物語を描いた作品だ。
ただ主題だけを淡々と問い続ける静謐な画面。だが、ものすごく強いインパクトが心に残る。
姉の夫を殺すことを余儀なくされ、終身刑囚として刑務所なかで人生を終えるつもりでいたレイラ。世の中に背を向け孤独が当たり前と覚悟して、他者との信頼感や絆を拒絶していた彼女を変えたのは、誰かから切実に必要とされることだけを生きがいにしてきた牧師の生きざまだった。
余分な演出や脚色を削ぎ落としたシンプルな物語は、これほど心に沁みるものなのか。
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