音楽ショウビズネスの世界のプロフェッショナルであるデロリスは、音楽の楽しさ、聴衆を引きつける表現やアレインジを知り抜いている。旋律の美しさやリズムの楽しさ・快感は、神の愛を説く説教と同じように、人を魅了し説得する手法なのだ。
だから、たとい修道院の尼僧による神と教会への讃歌であっても、それが人びとを引きつけ魅了し、信仰の素晴らしさをアピールするものであってみれば、音楽の楽しさや表現の美しさ、音声の調和の魅力を備えていなければならない。
デロリスはこう考えて、歌って楽しく、聴いて楽しい聖歌、人びとの心が参加するスタイルの音楽をつくり出すことを目標にした。尼僧ひとりひとりの声域に合わせたパートに分け、主旋律と高音部・低音部の区分と融合をはかる練習をした。
尼僧たちも、それまでは経験しなかった音楽・声楽・合唱の楽しさ、ハーモニーの美しさとリズム律動の快感を実感し、惹きつけられていく。
けれども、そのやり方は、院長の考えと対立してしまう。修道院の聖歌は旧来からの伝統の範囲にとどめるべきで、単純・質実こそ本来であって、美しさや装飾表現を求めてはならないというのが、院長の考えだった。あまりに堕落し危険に満ちた周囲の世界から尼僧たちを守るには、それが必要なのだというのだ。。
開発から取り残されて荒廃したダウンタウン――治安が悪化した旧中心街――で女性ばかりの修道女集団を安全に管理運営するために、院長の考えは内向きになっていたのだ。従来からの修道院の規律と戒律を守り続けることを尊重しすぎていた。
ところが、信仰の伝道と他者(社会、民衆とりわけ弱者)への奉仕・献身という理想と情熱に導かれて修道僧になった女性たちからしてみれば、安全と教会のアイデンティティの保持のために、旧来通りの慣習や規律を守って修道院のなかに閉じこもっているのは、大いに物足りなかった。
というわけで、聖歌隊のメンバーの圧倒的多数は、デロリスの指導法を支持した。
■音楽に神を感じるように■
そして、日曜日のミサで聖歌隊が新しいスタイル――黒人教会のゴスペル合唱のように――で演奏してみた。つまりはポップな聖歌を合唱してみた。
ダウンタウンの修道院から街頭に、そのポップな讃美歌の合唱が流れ出していく。
すると、普段は教会なんかにはほとんど無関心で生活している若者たちが、歌声に引き寄せられて集まり、聖堂のなかに入って来た。調和したメロディーと和音の響きの美しさとポップなリズムの快さに惹きつけられたのだ。
聖カタリナ修道院礼拝堂のいつものミサは、これまで空席ばかりが目立つ閑散とした集会だったが、聖歌隊の合唱演奏のすばらしさが評判を呼んで、日曜日のたびに参列者が増加していくことになった。合唱に合わせて歌ったり身体を揺すったり踊ったりする列席者も増えてきた。
まず聖歌隊と会衆・聴衆のあいだでリズムやメロディの共有が生じ、そして歌詞に含まれた「神への参加や信仰の意味をめぐるメッセイジ」が人びとの心に深く広く届くようになった。
人びとはリズムやメロディに乗って身体を揺らせながら、歌詞を口ずさんでいる。もちろん笑顔で。合唱の美しさと楽しいノリ。現生の喜びや快感として、聖歌を口ずさんでいる。
型どおりの陳腐な説教や讃美歌ではなく、現代風のメッセイジとして。