一方、以上のような事情で、ギャルヴィンは法廷闘争の切り札(証人)を次々と失っていった。彼の手の内、対策に関する情報が敵側に漏洩しているかのように、コンキャノンによって先手先手を打たれていった。
そのとおり、ギャルヴィンの陣営には「トロイの木馬」が潜り込んでいたのだ。
訴訟が始まる少し前、ギャルヴィンは行きつけの酒場で30代前半とおぼしき美しい女性、ローラと知り合った。やがて彼女は、ギャルヴィンの恋人になった。そして、ギャルヴィンとミッキー・モリシーの2人だけの「陣営」の事務助手になった。
ところが彼女もまた弁護士で、このところ、離婚やあれこれで引退状態に追い込まれていたのだが、法曹界に復帰するためにコンキャノンに雇われたのだ。ローラにはそれしか法曹界に復帰して収入を得る道は残されていなかった。
ギャルヴィンは、法曹界が権力闘争のアリーナであることについて、やはり警戒を怠っていたのかもしれない。なにしろ、つい先日まで飲んだくれていて、再起を賭けた法廷闘争に臨むという高揚感のせいか、準備や警戒、つまりは臨戦態勢の整備を怠っていた。
にもかかわらず、はじめのうち、ギャルヴィンは強気で、担当判事のホイルがコンキャノンとギャルヴィンを呼びつけて、和解調停に応じるように勧告したときに、大見得を切って徹底的に戦う姿勢を見せてしまった。
権威主義者のホイルは、生意気なギャルヴィンの態度に怒り、その時点で、この権力欲が強く頑迷な判事の「心証の秤」(裁判官の判定の方向性)はコンキャノンの側に大きく振れてしまった。
さて、ギャルヴィンはミッキーの2人は、証拠書類や事件の資料、証人準備の作業を始めた。審理開始の日程が迫っていた。
ギャルヴィンは、証言の約束を取り付けていた高名な医師を勤務先の病院に訪ねたが、すでに彼はカリブ海に旅立っていた。コンキャノン事務所が繰り広げている事前工作のすさまじさを知ったギャルヴィンは、急に戦闘意欲が挫けていった。
急遽、訴訟から和解調停に作戦の舵を切り換えようとしたが、彼に反発している判事は提訴の撤回=和解調停への変更申し入れを突っぱねた。
そこで、ギャルヴィンは麻酔での過失を証言する別の医師を探すことにした。だが、彼が用意していた医師のリストは貧弱なものだった。
証人としての出頭と証言を許諾した医師、トンプソン博士は、高齢の黒人の医師で、大がかりな手術での麻酔の実績や医学論文執筆などの業績では見るべきものがなかった。そして、勤め先は田舎の小さな診療所だった。
攻める相手は、アメリカでも最有力、最大規模、最新鋭の医療技術を誇る病院、そして世界的な名声のある医師団だった。
陪審員のメンバーは原則として、司法管轄区の住民人口での人種構成比に応じて黒人や白人、黄色人種などが選ばれる。ボストンは学術都市なので、1970年代には白人が圧倒的に多かった。
しかも、当時の平均的な一般庶民の意識や感覚からすると、とりわけ医療や科学の領域では黒人はやや軽視されがちだった。
その風潮を打ち破って病院側の麻酔処置の難点を指摘し、陪審員を説得するためにはかなり高い名声や業績が必要だったのだが。
ともかく、ギャルヴィンとミッキーは、ボストンにやって来たトンプスン博士と証言についての打ち合わせをした。すると、博士は高齢のため、最近の医学会で常識となっている専門用語も知らないことがわかった。
要するに、証人としての博士の強みは、わずかに、誠実さや医師としての地道な経験だけだった。