第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第4節 バルト海貿易とハンザ都市同盟
この節の目次
ところで、のちにハンザに加入するバルト海沿岸および東欧内陸の諸都市は、ドイツ人(テュートン諸族)の東部植民をつうじて形成されていった。すでに見たように、植民・開拓は異教徒へのローマ教会の伝道活動でもあった。そして、その布教活動とは、西ヨーロッパの秩序=価値観(風習や行動様式)をザクセン族やスカンディナヴィア人、スラブ諸族に受容させる政治的包摂ないしは文化的征服を意味した。
フランク王国時代に早くもブレーメン、次いでハンブルクに司教座が創設された。10世紀には、マクデブルクに大司教座が建設され、東方への布教活動の拠点となった。11世紀になると、スカンディナヴィアのウプサラとルントに司教が置かれた。そして、13世紀にはドイツ騎士団がプロイセン、ポメラニア、リトゥアニアに進出した。当時、宗教・教会組織は知識・文字文化の担い手であり、また唯一の広域的な権力体系であった。
とりわけ修道士たちは、農耕や農業土木、建築・都市建設などに関する技術と知識の保持者で、農耕地の開拓や農村建設で献身的に活動し、開拓農民を指導した。修道院や教会は、それゆえ、新たな集落の建設運営や農耕技術を普及させるためにも、開拓農民や原住民を商品交換文化のなかに引き入れるためにも、また商人の活動の保護者としても、その役割が期待された。ドイツ商人たちは修道院や教会の伝道活動に協力し、見返りに東方の司教たちと教会は領主としてドイツ商人に種々の特権を与えた。
さて遠距離交易は、商品とともに旅をする冒険的な遍歴商人の活動から始まった。遍歴によって商人たちは、領主=農民関係を中心とする局地的・共同体的秩序の拘束から離れることができ、地平線の彼方に向けて視野を広げることができた。とはいえ、財貨を携えての長距離の遍歴には危険がともなっていた。リスク対策として、商人たちは出発地で仲間=集団をつくって冒険的な旅行に赴いた。運輸技術や通信技術がきわめて未発達な時代には、商品と旅程の安全を確保するために仲間内の掟=規範や隊長の強力な権限が自然発生的に生み出されていった。仲間組織のネットワークはまた、交易利権や利得のチャンスをめぐる情報をやり取りするコミュニケイションでもあった。
ドイツ商人たちが危険をおかしてバルト海・北東ヨーロッパ・ロシアに入り込んでいくようになった初発的な動機は、奢侈品としての毛皮の調達のためであったようだ。11、12世紀の航海技術・船舶は未発達であったから、毛皮の調達のためには、海岸線から離れない沿岸航路をたどってバルト海を航行し、ロシアにまでいたるしかなかっただろう。だが、港湾や沿岸の集落も未発達だった。そこで、スウェーデン沖のゴートランド島を中継拠点とするようになった。
ゴートランド島の船乗りたちは、北欧の低湿地の河川や水路、湖沼伝いに内陸に遡行してイルメン湖畔のノヴゴロドに到達していた。彼らは11世紀中にノヴゴロドを支配する部族侯から商業特権を与えられ、毛皮や獣皮を取引きする交易拠点を建設していたようだ。
だが、ゴートランドは、古くから冒険航海による交易や植民活動をおこなってきたヴァイキング(スカンディナヴィア人)の通商拠点として利用されていた。そこにゲルマニア出身の冒険商人たちが、出身地ごとに集住する居住区をつくった。だが、生活風習や商慣習の異なる新参者のドイツ商人と原住民・ヴァイキングとのあいだには、衝突や軋轢が絶えなかった。
1161年、ザクセン公ハインリッヒ(獅子公)の調停によって、両者の平和協定が取り結ばれ、リューベックを訪れるゴートランド原住民とゴートランドを訪れるドイツ商人は相互に平等な通商権が認められた。協定によって双方の商人には、財貨・身体の法的保護、都市での免税、相手地で死亡した者の遺産保護が特権的に保証されたのだ。このときはじめて、バルト海沿岸地域において制度としてドイツ人の商人団体が組織され、君侯権力によって(公的に)承認されたことになる。この協定文書の付随文書には、ハインリッヒがゴートラント島に赴く商人団体の長を任命し、その者にメンバーについて生命刑・身体刑の宣告(罰令権)や財産関係の判定を含む司法上の全権を委ねることが表明されていた〔cf. Rörig〕。
ドイツ商人たちのゴートランドにおける通商活動の拠点となったのは、港湾都市ヴィスビーであった。ヴィスビーから西方に輸出された商品は、皮手袋、武器、塩、粗布、穀物などだったが、最も重要な商品はロシア産毛皮――熊、貂、黒貂、かわうそ、ビーバーの毛皮――であったという。
ドイツ商人は、ヴィスビーを中継拠点としてロシア諸王朝――リトゥアニア侯領、ノヴゴロド侯領、モスクヴァ大公領――に浸透していった。1229年のスモレンスクとドイツ商人との条約によれば、来訪した商人たちの出身地はリューベック、ヴィスビー、ブレーメン、ゾースト、ミュンスター、ドルトムントなどだった。が、その多くはヴィスビーに定着するか、そこを経由してきていたものと見られる。
対ロシア貿易は、ことに冬季の厳しい気候に大きく制約されていた。海が荒れ、寒気が厳しいため、冬季の航海を避けて、春に出発して秋に戻る夏季渡航団と、秋に出発して冬季をロシアで過ごし春に戻る冬季渡航団の2グループに分かれて活動したという〔cf. 高橋 理〕。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成