第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第4節 バルト海貿易とハンザ都市同盟
この節の目次
バルト海沿岸の諸都市が、以上に見たように、自然発生的というよりも、遠距離商人たちの戦略ないし計画とでもいうべきものに多かれ少なかれ導かれて建設されたことは、個々の都市の内部および相互関係における権力の仕組み(または社会的分業での地位)に独特の性格を与えたはずだ。個々の都市の内部では、参事会 Rat を中核として、上層商人による都市全体の統治および下層民に対する支配機構が形成された。
上層商人たちは、血縁関係や出生地の共通性などをもとにした情報のやり取りや取引きのネットワークを形づくりながら、バルト海貿易での優位を築こうとした。貿易経路は、商業資本の権力=影響力を伝達する回路でもあった。こうして、大西洋から北西ヨーロッパ、北海=バルト海、中央・東ヨーロッパにおよぶ地理的空間に交易ネットワークが組織され、多数の都市支配装置や上層商人たちの権力ネットワークが編成されていった。このネットワークは、幾多の君侯や領主の支配圏域を貫き横断し、諸地域の住民生活と産業活動を広域的な物質代謝の連鎖のなかに絡めとっていった。
1400年頃のハンザ交易路:
F.W.Putzger, Historischer Weltatlas, 1963
東欧とバルト海沿岸に通商経路と都市の建設を進めていったいくつかの冒険商人グループのなかから、指導層の結びつきが生じた。それは単に経済的な結合にとどまらずに、婚姻関係による血縁的・家系的な結合をももたらした。当時、家系的な融合は、商業資本の集中・集積の1つの形態であり、経営組織の連携や癒合を意味する場合が多かった。血縁関係や取引き上の結びつき――それに随伴する情報(書簡や商業文書)のやり取りと共有、財政の共助など――をつうじて、遠距離商人たちは、ローカルな利害や拘束を飛び越えて広域的な視野と戦略を身につけていった。
こうして、ドイツの商人が12世紀の中葉から13世紀にかけて達成し、つくりだしたものは、北海=バルト海貿易全体における特権的地位と優越であった。1300年頃には、いくつかの同じ家系の構成員(当時はそれが経営体の指導層だった)たちが、西はミュンスターやケルンから、またバルト海西端のリューベック、ヴィスマル、シュトラールズントからバルト海東岸のリーガやドルパートにいたるまで、政治的なネットワークを取り結んでいたとレーリッヒは言う〔cf. Rörig〕。
植民・都市建設にさいして、指導者たちにはより下層の人びとをつき従ってきていた。人口移動が進むにつれて、新開諸都市では下層の民衆にも一種の出生地ごとの居住区=共同体が生まれた。だが、階層が下になるにつれて、彼らの生活意識や視野・利害関心は、ローカル共同体や家族、業種などの狭隘な制限によって深く拘束されていた。
あとで考察するように、この時代には商人の都市への定住、言い換えれば経営本拠の特定都市への固定と文書記録による単一の経営中心からの経営管理の組織化が始まっていった。これは、個々の商人経営の構造変動をもたらした。通商同盟は、商人仲間の自然発生的な利害共同から、文書記録や計画によって多かれ少なかれ意識的に取り結ばれる都市団体のあいだの共同行為へと変化していくことになった。
では、こうした交易網を支配するハンザ商人の権力はどのような仕組み(制度)によって組織化されていったのだろうか。とりわけ諸都市の商人団体のあいだの同盟はどのように形成されたのだろうか。また、近隣の君侯や王政との関係はどうなっていたのだろうか。
13世紀前葉まで、バルト海交易の組織化の主導権はいまだ諸都市の同盟にではなく、ゴートランド島ヴィスビーの商人仲間 Genossenschaft の手にあった〔cf. Rörig〕。都市団体としてのヴィスビーではなく、そこを拠点として活動する商人たちの法人団体 Körperschaft が、これまた各地を遍歴する多数の商人仲間のなかで優位を保っていたのだ。すでに見たように、当時の貿易形態における取引の組織化と監視にとって戦略的に重要な要衝としての地点に位置していたからだ。
だが、バルト海沿岸の新興諸都市は、定住する商人の経営権力の本拠として、また商人層の集合的権力の砦として成長しつつあった。このような新たな勢力の中核はリューベックであった。リューベックの盛運は、その地理的・地政学的環境にもとづいていた。そして貿易形態もまた、ネーデルラント=フランデルン諸都市で製造された毛織物などの消費財を大量に東方に売りさばき、バルト海や東欧から食糧や木材や鉱石などの工業原料を大量にに西ヨーロッパに供給するという構造に変化していった。
1226年、ザクセン公ハインリッヒ獅子公の失脚ののちに皇帝の勅許状を得て帝国直属都市に昇格したリューベックは、近隣の君侯や領主からの介入なしに自分自身の利害に従って活動する法的な根拠を与えられ、プロイセンやリーフラントにおけるテュートン人による植民事業のための砦となる地歩を得た。こうして、諸都市のなかでリューベックが指導的地位をかちとっていく過程が始まった。
リューベックは、しだいにヴィスビーの仲間団体とは別個の独立したバルト海政策を担うまでに成長していった。その最も重要な手段は、非常に巧妙な同盟政策であった〔cf. Rörig〕。それは、一方では君侯=上級領主層との関係において、他方では諸都市との関係において展開されていった。交易路が多数の君侯・領主の勢力圏を横切っているかぎり、いずれにしろ彼らとの連合・妥協は必要なことであった。それは、ときには君侯たちの相互不和を利用しながら、またときには商業特権と引き換えに上納金を差し出すことによって、彼らを同盟のなかに引き入れることを心得た同盟政策だった。それが、商業利潤の分配に諸侯を参加させることで彼らを財政的に従属させる手管だった。
おりしも、君侯たちは自らの生き残りを賭けて、支配領域の地理的拡大や名目上の支配圏域の実効的な統合、あるいはそれらと結びついた新たな収入源の確保に血眼になっていた。有力諸侯は領邦を一元的な支配圏域(領域)とすべく、「領邦の平和 Landfriede 」を旗印に統治権力と物理的暴力の独占を企図していた。最終的に領邦国家の形成に行き着くはずの領域主義 Territorialismus の展開である。こうした状況のもとで、有力君侯たちのラント支配が、都市への介入をねらう地方領主の権力を封じ込め、都市を対等な同盟者として扱うかぎりでは、ハンザ諸都市と君侯の妥協は可能であった。
領邦諸侯によるラント平和運動と結びつきながら、諸都市の同盟関係が組織されていった。この同盟関係が求めたのは、賦課や税の運上の見返りに君侯や領主層から陸上・海上交通路の安全確保と通商特権、関税の減免権などを獲得することであったが、やがてハンザ商人仲間のなかで共通に通用する信用制度(掛売り、小額貸付け)や、貨幣制度、軍事協定などの秩序の創出と運営にも手を伸ばしていった。商人ハンザの同盟形成の動きを跡づけてみよう。
なお、ここでは表現をくどくしないために「諸都市の」とか「都市間の同盟」という表記をしばらく使わざるをえないが、厳密には「それぞれの都市の商人組合の」とか「それぞれの都市に本拠を置く商人団体のあいだで締結された同盟」という意味である。同盟協定の法的効力は属人的なもので、――その市域内か市域外かにかかわらず――団体のメンバーとその財産や商品、取引関係について生じるものだった。そして、都市統治団体とそれを牛耳る商人団体とは事実上、人脈的・家系的にも未分化で一体化していた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成