愛と哀しみのボレロ 目次
あれこれの人生
原題について
見どころ
あらすじ
発   端
1930年代後半〜1940年代
1930〜1940年代 その2
アンヌとシモン
カール・クレーマー
タチアナとボリス
米軍のヨーロッパ遠征とパリ解放
戦争後のそれぞれの運命
パリの青春
戦争の傷痕
満たされぬ想い
立ちはだかる「東西の壁」
母との再会
出会う人生
映画製作の背景
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アマデウス

1930年代後半から1940年代 その2

■1940年から45年のヨーロッパ■
  ナチスはまたたくまに大陸ヨーロッパ全域に軍事的支配を拡大した。パリも1940年の夏までにはドイツ軍の制圧下に入った。はじめのうちはドイツ軍はいく分うやうやしく振る舞ったが、ブリテンが講和交渉を拒否し、フランス(ポーランド、チェコスロヴァキアなど)が大陸を逃れて、ブリテンに臨時政府や独立闘争本部を設置すると、今度はヨーロッパ中に抑圧や弾圧と収奪のレジームを構築していった。
  ナチスはフランス(ことにパリ)でもユダヤ人狩りを始めた。
  ドイツ軍は「ユダヤ人の安全をはかるために一時的な隔離であって、親子や夫婦などの肉親が引き離されることはない」と宣伝していた。だが、ナチスが本国や東欧でやってきた残虐行為はパリ市民のあいだにも伝わっていた。

アンヌとシモン

  それまでパリで穏やかな新婚生活を送っていたアンヌとシモン・マイェールは、ユダヤ人であったことから成り行きを恐れるようになった。そんななかでも、夫妻は男の子をもうけた。
  そんなある日、近隣者の密告でアンヌとシモン、そして生まれたばかりの幼児はドイツ軍に拘束されてしまった。
  ユダヤ系市民たちは、一定期間の調査のあと、それぞれドイツや東欧の収容所に送られることになった。彼らは、収容所別の集団に編成され、列車=貨車に押し込まれた。
  アンヌとシモンたちは――虐待と虐殺で悪名高い――マウトハウゼン収容所まで送られることになった。

  ユダヤ人たちは行く手に過酷な運命が待ち構えていることを覚悟した。
  シモンは、幼子だけはなんとか逃したいと考えて、パリ郊外の分岐点に列車が停車したときに、床のハッチからレイルのあいだの地面に産着に包んだ男の子を降ろした。産着には、アンヌの指にあった高価な指輪を添えた。養育の費用の足しになればと。
  だが、戦争中の物資欠乏の状況のなかで、赤ん坊は指輪目当ての男に拾われることになった。男は指輪を奪うと、幼児を牧師館の扉の前に捨てていった。

カール・クレーマー

  さて、ナチス本部からもゲルマン精神を具現する「音楽の天才」と認められたカール・クレーマーは、軍楽隊長(尉官)としてパリに派遣された。戦闘行為や軍政には携わる必要がない任務だった。
  とはいえ、クレーマーの任務は、「花の都」パリでドイツ軍の存在(軍楽隊の水準の高さや技能)を誇示し、ドイツ軍の軍務や統治を音楽によって鼓舞することだった。
  好きな音楽を続けることに幸運を感じてはいたが、クレーマーは自分の心が動揺し押圧されるのに気づいた。フランス人=パリ市民たちは、自分をナチスドイツの権力の一部と見なしているのだ。彼らは、公式の場では恭順を示しているが、その目は暴君=抑圧者を見る恨みがましい視線を放っている。
  また、ドイツ軍の将校たちは、軍事的に優越する支配者として、傲慢横暴に振る舞っている。そういう特権者に取り入って、利益のおこぼれに与ろうとする「さもしい」フランス人たちもいた。そして、「商売」と割り切ってドイツ軍将校に媚を売る女たちもいた。
  クレーマーは、そこに言いようのない嫌悪感を感じていた。

  けれども、彼は支配者の側の将校=エリートとして、食事や宴会では同胞の将校たちと同席した。そして、媚を売る女性たちも近づいてきた。だが、身体全体に拒否感を漂わせて、クレーマーは遠くを眺めて、苦痛の時間が過ぎるのを待った。
  彼はベルリンの婚約者に手紙を送った。
「私にとっては、音楽がすべてだ。戦争もヒトラーの思惑も、どうでもいい。はやくこんな状況は終わってほしい。あなたのもとに帰りたい。そして、平穏に音楽を求めたい」と。

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