西ヨーロッパを席巻したドイツ軍は、1941年初夏にはソ連との協定を破棄して、大規模な攻撃・侵略を開始した。戦車軍団を盾とする世界最初の戦法で、ウクライナ、ロシア、クリミアを蹂躙していった。準備不足のソ連の防衛線は簡単に崩壊し、後退していった。
「祖国の防衛」というスローガンのもとにスターリン政権は、15歳から58歳までの成年男子全員に軍役を課した。過酷な前線に男たちは送られていった。「社会主義の男女平等」は軍務にも広く適用され、若い女性たちも軍医・衛生兵・看護婦、兵站事務などの仕事で、最前線のすぐ後方にまで送られた。
というのは、戦闘や餓死、病死などで多くの成年男子の人口が失われ、危険な任務にも女性をつけるしかなかったのだ。その危険な任務を女性たちは立派にこなした。屈強な男たちがいなくなった都市や工場で働き管理したのも、女性たちだった。
タチアナと新婚生活を送っていたボリス・イトヴィッチもまた、キエフの戦線に送られることになった。モスクワに1人残されたタチアナは、まもなく男の子を出産した。
ソ連軍は、1942年からT34型戦車の大軍団を送り込んで反転攻勢を開始した。ドイツ軍は後退し始めたが、強力な抵抗と反撃を続けた。双方ともに、夥しい死傷者を出した。
ソ連軍は43年からドイツ軍の戦線を切り崩して、西に進軍した。領土を回復していったが、過酷な戦闘で多くの兵士が斃れた。そのなかには、ボリスも含まれていた。はじめは「行方不明」ということだったが、やがてタチアナのもとに軍当局から「戦死」の報告が届いた。
戦争は、「枢軸同盟」対「連合諸国」の敵対という世界戦争になった。合州国は1941年に日本との戦争に突入し、そしてドイツ・イタリアなどの枢軸同盟とも戦火を交えることになった。ヨーロッパ戦線では、はじめのうち、ブリテンやソ連への援助という形だったのが、42年からは直接に軍を派遣して枢軸同盟軍と戦うようになった。
ジャック・グレンの住む町でも、多くの成年男子、とくに若者たちがヨーロッパ戦線に赴いた。グレンの家の向かいの食料品・青果店の店主の息子兄弟が軍隊に入って、大使用を横断する軍用貨物船に乗った。2人はブリテンの南端の海岸のキャンプで出撃を待つことになった。
やがてジャック・グレンにも軍からの召集がかかった。音楽家のジャックは、陸軍軍楽隊の指揮官としてヨーロッパに派遣された。
やがて、1944年6月、北フランスのノルマンディ海岸に連合軍が上陸作戦を決行するときがやって来た。【参照記事⇒史上最大の作戦】
上陸に先行する先遣空挺部隊(パラシュート部隊)が大型機でドーヴァーを越え、海岸後背地への降下作戦を開始。そのなかには、ジャックの町の店の兄弟がいた。空挺部隊の来襲を察知したドイツ軍は、降下する連合軍兵団に向かって砲撃を浴びせた。そのため、着地する前に空挺部隊には大きな損害が発生していた。
その犠牲者のなかに、あの兄弟がいた。
大きな犠牲を払って海岸部の浜頭堡を確保した連合軍は、物量に物を言わせてドイツ軍を駆逐していった。そして、8月にはパリを解放した。【参照記事⇒パリは燃えているか】
パリを解放した連合軍は、市民たちから熱烈な歓迎を受けた。
ジャック・グレンは軍楽隊長として、戦勝パレイドや行事の音楽を担当して雰囲気を盛り上げた。
だが、ナチスに協力した者たちは、解放後に悲惨な目に会うことになった。戦争犯罪の協力者、裏切り者として非難を浴び、公職から追放された。
ドイツ軍将校たちに媚を売り、愛人となっていた若い女性シャンソン歌手、エヴリーヌは、市民たちの指弾を浴び、資産を没収され、髪の毛を根元から切られてパリを追われた。彼女は、ドイツ人将校の子供を生んでいた。乳児を抱いたエヴリーヌは、生まれ故郷ディジョンにこっそりと逃げ帰った。
ドイツ軍楽隊のクレーマーは、連合軍に捕虜として捕えられた。そして、しばらく捕虜収容所で暮らすことになった。