過酷な戦争から生き延びた世代には、戦争の傷跡が疼きのように影響をおよぼし続けていた。
1960年代半ば、カール・クレーマーはアメリカでの演奏トゥアーを企画した。ヨーロッパで随一の指揮者を招いての(おそらくカーネギーホール)演奏会ということで、前売り券は完売、当日券も完売だった。
ところが、クレーマーがステイジに立ってみると、ホールに着席している聴衆はたった2人の有名な音楽評論家だけだった。クレーマーと妻のマクダが主催者側にどうしてこうなのか尋ねるた。返事はこうだった。
ティケットは完売だ。おそらくアメリカのユダヤ人たちがすべてのティケットを買い占めてしまい、一般の聴衆観客が演奏会に来れないような妨害運動を組織しているらしい、と。
ニューヨークタイムズを見ると、「ヒトラーと握手した音楽家をアメリカは受け入れない」というヘッドラインが踊っていた。20歳のクレーマーは、ナチスの指導者の前でピアノを演奏し絶賛され、しかも、フランスを占領したドイツ軍のメンバーとしてパリに派遣され、結局、連合軍の捕虜なったという経歴が記されていた。
クレーマーは、ナチス独裁と戦争の傷痕が今でもまだ残っているのかと愕然とした。だが、ティケットがすべて売れているのなら、演奏すべきだとという律儀な信念を捨てなかった。おそらく、自分は純然たる音楽家として生きてきたという自意識を貫くつもりだったのだろう。
演奏は素晴らしかった。
だが、ナチス時代のクレーマーの責任を追及しようとするマスメディアの舌鋒は鈍らなかった。マクダは夫に、こうなったら寡黙を破って記者会見を開き、自分の立場をはっきりと説明すべきだと求めた。
そこで記者会見となった。
クレーマーは、自らの意思ではナチスの戦争犯罪に協力したことはないこと、パリには楽団長(士官)として赴き、市民への迫害(ユダヤ人狩り)や戦闘行為を一度たりともしたことがないこと、戦後は一貫して平和と民主主義のために音楽活動をしてきたことなどを説明した。
だが、言葉を飾ることもなく、表現は控えめだった。
そして、クレーマー夫妻は、追われるようにアメリカをあとにした。
パリでは、ユダヤ人の音楽家アンヌがこれまでの精神的な苦痛のために精神障害を起こして、病院での治療を受けることになった。そして、過去の記憶をほとんど失ってしまった。苦痛を呼び起こさないように、脳が記憶を封じ込めて再生できなくしてしまったのだ。過去を忘れ去ることで、心の平衡を取り戻そうとしたのだろう。
さて、アメリカでは、ジャック・グレンの2人の子どもたちは音楽の世界で大きな成功を収めていた。ジェイスンは音楽プロデューサー=ディレクターとして。サラは声楽家として。
だが、サラはなかなか落ち着いた家庭を築くことができなかった。2度離婚して、今は3人目の夫と暮らしているが、その関係はぎこちなく、夫婦のあいだにはどうやら修復不能な亀裂が生じていた。原因は、一方的にサラの側にあるようだ。
音楽の世界で課題を突き詰めると、そのことばかりに精神がとらわれてしまうのだ。つねにより高いパフォーマンスを求めるサラは、いつも欲求不満に陥っていた。だから、自分の殻に閉じこもりがちになってしまうのだ。
そんなサラを、兄のジェイスンはいつも心配していた。