1981年、テレヴィキャスターのエディットは、国際赤十字とUNICEFから、国際チャリティ音楽祭の企画への協力と参加を打診された。エディットはこの企画の趣旨に賛同して実行委員会に名を連ね、テレヴィなどマスメディアで、チャリティ音楽祭への協力・参加を訴えた。
実行委員会は、ヨーロッパやアメリカの音楽家や芸術家に音楽祭への参加を要請した。アメリカでは、グレンの娘のサラと兄のジェイスンに出演を要請した。ドイツでは、最有力の指揮者カール・クレーマーに。フランスでは、バレエダンサーのセルゲイ・イトヴィッチに。全員が出演を快諾した。
企画が具体化すると、音楽祭のフィナーレは、ラヴェルのボレロの演奏と声楽、バレエ・ダンシングとのコラボということになった。クレーマーがオーケストラを指揮し、サラがメッセイジとスキャットを歌い、セルゲイが踊るというものだった。
リハーサルのためにパリにやって来たサラは、ヴォーカルを2つのパートに分けることにし、そのためのパートナーを探し求めることになった。パートナーに応募してきたいくつものデモテイプを見ているうちに、パトリック・プラという若者の飾らない率直な歌唱と表現力に注目した。で、パートナーをパトリックに決めた。
音楽祭の当日、会場にはたくさんの人びとが参集した。客席には、アンヌとロベールがいた。ステイジには進行役でエディット。指揮者のクレーマー。歌手のサラとパトリック、そして演出家としてジェイスン・グレン。そして、パレエダンサーのセルゲイ。
結局のところ、この映画は、チャリティ音楽祭の主要な出演者・参加者やその親の世代が共有した時代=歴史を描こうとしたのだ。本人たちとその親たちの人生、とりわけ第2次世界戦争から冷戦にかけての時代を横断的に描き出したとおうことだ。
1981年、世界はまだ東西冷戦のさなかにあった。とはいえ、今から見れば、「冷戦の晩期」で、東西レジームはデタント(緊張緩和)さらにはアンタント(協力と協調)が進展していた。
そのなかでも、ヨーロッパで緊張緩和でイニシアティヴをとったのは、とりわけフランスだった。というのも、ドゥゴール大統領以来、フランス政府は、西側陣営のなかでアメリカと距離を置き、東側との架け橋を構築しようとしていた。もとより、それは単に人類の融和=人道主義とか平和主義のためというよりも、むしろ、アメリカのヘゲモニー、ドイツ(アジアでは日本)の経済的地位の台頭という状況のなかで、大国としてのフランスと地位の相対的後退が目立ち始めたため、東西融和の推進で主導権を握ることで地位の挽回をめざしていたからでもあった。
つまりは、したたかな国益の追求、ナショナリズムがはたらいていたわけだ。
このデタントの最後の局面が1980年代初頭だった。
というのは、この年、アメリカでは右翼保守主義のレイガン政権が登場し、アメリカの世界覇権の再構築や産業祭優位の組織化のために東西対決の旗印を強く掲げ始めたからだ。
その2年前には、ブリテンではサッチャー政権が発足していた。
1980年代には、アングロ・アメリカンの保守主義が台頭して、ソビエト連邦や途上国に対して、かなり強気の政策を推し進めた時代だった。
つまり、デタントは後退し、すでに世界市場での経済的競争で著しい劣位と没落に陥っていたソ連・東欧レジームに対して、ハイテク絡みの軍拡競争に駆り立てて、より深い経済危機、財政金融危機に追い込もうとしていたのだ。
その戦略のために、ソ連・東欧レジームは1989年から91年にかけて崩壊していった。だが、それは、望ましい形態でのレジーム変革ではなかった。かなりの痛みをともなう変動=破局だった。
このような動きが始まる直前の、デタントの雰囲気が――じつにフランス的な描き方で――盛り込まれた映像作品が、この映画だった。
深刻な世界経済の危機から列強諸国家の敵対が深まり、世界戦争が勃発し、悲惨な抑圧や破壊が繰り広げられた。戦争終結後には冷戦構造ができ上がり、欧米の経済成長が展開した時代・・・
| 前のページへ |