愛と哀しみのボレロ 目次
あれこれの人生
原題について
見どころ
あらすじ
発   端
1930年代後半〜1940年代
1930〜1940年代 その2
アンヌとシモン
カール・クレーマー
タチアナとボリス
米軍のヨーロッパ遠征とパリ解放
戦争後のそれぞれの運命
パリの青春
戦争の傷痕
満たされぬ想い
立ちはだかる「東西の壁」
母との再会
出会う人生
映画製作の背景
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炎のランナー
音楽芸術の世界
オーケストラ!
アマデウス

立ちはだかる「東西の壁」

  ところで、ソ連のバレエ界では、タチアナの息子セルゲイ・イトヴィッチは、若き天才として、並ぶ者なき至高の声望を獲得していた。その業績と能力に対して、レーニン勲章が贈られた。
  ときは1964年。

  1953年のスターリンの死後、おもむろに従来の閉鎖的で抑圧的なレジームの弊害・問題点への批判が始まった。スターリン批判と自由化への動きだ。58年には、開明派のフルシチョフが首相に就任して、スターリン批判と抑圧緩和への動きが加速したかに見えた。ソ連国内には、西側世界の情報がかなり浸透するようになった。
  とりわけ、国外での講演活動や学術に携わる芸術家や学者は、西側世界の文化や生活情報にアクセスしやすくなった。

  とはいえ、1960年には守旧的な主流派のブレジネフが党の最高指導者(幹部会議長)に選出され、緩和と強権という2つの傾向の綱引きが顕著になった。
  この対立関係において保守派がヘゲモニーを掌握して、緩和と自由化への動きを封じ込め始めたのは、1964年で、この年、フルシチョフは失脚する。
  資本主義と「社会主義」との態勢の対立を強烈に意識するブレジネフ・ドクトリンが統治と外交の基本路線となった。そのため、フルシチョフ政権下で進み始めた「自由化」は停止し、ソ連国内で芸術・文化活動での自由度は大きく後退してしまった。

  政治的自由や言論の自由はかなり後退したが、じつはソ連政府首脳部は、世界市場での「社会主義側」の劣勢と民生部門の技術水準の著しい遅れを強く意識していた。
  その深刻な危機感が一方では締め付けの強化として現れたが、他方で経済の次元では国営企業の経営自主権や独立採算のための大幅な改革が進められていった。
  しかし、一般市民の消費や文化における選択の自由が奪われた経済のなかでは、改革の方向は的外れとなり、経済危機と財政・金融危機はどんどん深刻化し、西側への従属構造が深まっていった。
  それでも、レジームはこの危機のなかで30年間も持ちこたえた。とはいえ、遅かれ早かれ、経済と国家財政、金融の危機が政権の基盤を掘り崩すことになった。

  この年、フランスでの公演で大きな成功を収めたセルゲイは、モスクワ行きの航空機が待つ空港に向かう途次、地下鉄の乗換駅から突如逃げ出し、フランスに亡命した。
  芸術家として自由を渇望していたからだ。新しい世代は、戦争中の苦難を経験することなかったから、それの政治体制の権力の重みと自由の欠如に対して何よりも不満を感じていたのだ。そして、優秀な芸術家は「特権階級」として西側での公演が認められ、したがって亡命のチャンスがあった。
  モスクワで、息子の輝かしい成功を喜んでいた母親、タチアナはTVニュウズ報道でセルゲイの亡命を知って愕然とした。ショックのあまり倒れてしまった。前の夫を戦争で失い、今また、1人息子を冷戦のなかで失ってしまった。

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