古典映画フリークの物語らしく、冒頭から映画作品についての「映画批評」が展開する。そう、映画評論から物語は始まる。
とはいっても、残念ながら、映画を語り合うのは知性も教養もない荒くれの殺し屋2人。この2人が今流行りのカフェで語るのは、とんちんかんな映画評なのだが。
場所は警察署の前のダイナーズでのこと。
そして、われらが殺し屋、批評家ジムがその下劣な会話を、苦々しい思いを押し殺しながら聞いている。彼は――あるべき食文化を破壊する――ファーストフードの店では食事をしない。カフェを飲んでいるのだ。
ジムは殺しのターゲットであるクレティス・タウトが現れるのを待っていたのだ。
さすがに「プロ中のプロ」とい言われるだけの殺し屋だけに、状況の展開の読みと情報収集では飛び抜けた力量をもっている。
クレティス・タウトに扮したフィンチが、殺し屋たちから逃れるため、証人保護手続きによって収監されてた警察の拘置所から出てくるのを、待っていたのだ。こうして、執拗で的確な標的捕捉のためのジムの隙のない作戦が実行に移された。
一方、下劣な映画評の与太話を交わしていた2人組のゴリラ――本物のゴリラには失礼千万だが、力任せで知性のかけらもない殺し屋や用心棒を「ゴリラ」と呼ぶ――は、クレティス・タウトなる人物が目の前を通り過ぎるのを、知らずに見逃した。
じつは、この荒くれ2人組は、本物のクレティス・タウトをすでに殺していた。
力任せの荒くれどもは、標的の確認も殺害後の検証もしなかったから、請け負った殺しに成功していることすら知らずに、依然としてクレティス・タウトなる人物を追い求めていたのだ。
一度は殺したはずの男が、ふたたび現れてマフィアのドンの脅威となっている。ドンの息子の殺人の証拠を握っているのからだ。マフィアは、2人組の殺し屋がドジを踏んだ――間違って別の人物を殺した――と思って、契約の履行を迫っていた。「早く殺せ、この阿呆ども!」と。
「いったい、クレティス・タウトはどいつなんだ?」2人組は、いらついていた。
なんでそうなったのか。こんがらかった事件の経緯を追いかけるのが、この物語なのだ。物語を転がす狂言回しが殺し屋《毒舌ジム》なのだ。
さて、じつはこのあと、殺し屋ジムはクレティス・タウトなる若者を捕まえて、その若者に銃を突きつけながら、こんがらかった物語を問い質すことになった。
つまり、「大事なのは物語だ。どういう経緯でお前がクレティス・タウトとして殺し屋たちに命を狙われることになったのか」と問いただすことになったのだ。
「さあ、物語を語ってくれ。古典的映画みたいに面白ければ、命を助けてやらないでもない。どうだ……」と。
というしだいで、偽造した身分証明書を携えてクレティス・タウトに扮していたトレバー・フィンチが語り始めたのは、奇妙な物語だった。
ただし、批評家ジムはフィンチの語りにときどき口を差し挟み、脚本家あるいは撮影監督よろしく、状況設定の変更を迫った。彼は、フィンチの物語を映像化するための脚本造り指揮を取り始めたかのようだった。
「物語は二十数年前に戻るのか。するとフラッシュバック映像ということのなるな。
……すると観客にとっては、話の筋を追うのが難しくなるな……だが、まあいいだろう。傑作映画にはフラッシュバックで物語を語るものも多い。うん、傑作になりそうだ」とは、ジムの独りごとだ。