ところが、2人組の殺し屋にタウト殺害を命じたマフィア・ファミリーの幹部2人が、車のなかでホテルの前に張り込んでいた。ドジを踏み続けてきた2人組がまたもや失敗することを予測して、そうなれば自分たちでフィンチを殺そうと思ったのか、それとも、フィンチの行き先を突きとめて、またもや安価な殺し屋を差し向けるつもりなのか。
そんなところに、フィンチがホテルから出てきてタクシーに乗った。マフィアたちがフィンチの乗ったタクシーを追尾し始めると、さらにそのあとをジムが追いかけることになった。ジムはこういう成り行きも読んでいたのだ。事態はジムの読み(望み)通りの展開になっている。
さて、タクシーで駅に乗りつけたフィンチはプラットフォームに駆け込んだ。
だが、そのとき列車は走り出していた。がっくりとうなだれて、柱に背中を押しつけて、フィンチは座りこもうとした。そのとき、上から鳩の羽毛――エスとの運命を予兆するシンボル――が降ってきた。
フィンチはいぶかしげに、番線表示を眺め、向かいのプラットフォームを見た。
すると、隣の番線でフィンチの視界をふさいでいた列車が走りだした。そして、鳩の籠を抱えたテスがプラットフォームにたたずんでいた。
フィンチは線路に降りて向かいのプラットフォームに渡った。
テスに近づくと、彼女も目を輝かせて歩み寄ってきた。
ここからのシーンは、カメラが2人か遠ざかって、成り行きに心配しながらフィンチを追いかけてきたジムの視線でみている構図(場面構成)となる。
そんな場面でフィンチがテスに近づいて声をかける。テスが言葉を返す。そして抱き合う。じつに「古典的な愛のシーン」ではないか。ところで、若い2人とジムとの間には距離があって、2人の会話の声は聞こえない。
無声映画のようなシーンをジムは感動の面持ちで眺めながら、テスとフィンチの会話を想像することになる。往年の名作映画の恋人たちの再会場面の名台詞を口にして、その場面のアテレコをすることになった。
若い2人が互いの愛と絆を確かめ合っているのを確認すると、ジムは微笑みながら、プラットフォームを離れ、駅から出ていった。
一方、駅前の停車ゾーンにはマフィア幹部の2人組の車が止まっていた。通りがかりにジムは、その車に一瞥を流した。そして2人に侮蔑的な視線を送りながら苦笑いする。
やがてジムが車から遠ざかっていく。カメラがマフィア2人組の車のフロントグラスに近寄っていく。アップ画面では、額を撃ち抜かれた2人が映し出される。ジムがやったのだ。だが、射撃の音が空気を切り裂くような殺伐とした殺しの場面は描かれない。
テスとフィンチが再会して互いに愛を確認するという、自分で描いたとおりのラストシーンまでストーリーが展開したのを見届けたジムは、駅の前の小洒落た石畳の道に出た。クラッシーな街灯のポールが通りに並んでいる。
シックな石畳の道に洒落た街灯の柱。……まさに古典映画に出てくる名シーンのようだ。
ジムはいたずらを思いついた少年のような顔つきになって、左右を見渡した。幸い誰もいない。ジムの顔が輝いた。
こうなると、誰でも「あっ、あのシーンを演じるつもりだ!」と思うだろう。石畳の洒落た街路に街灯、そしてロマンティックな気分。
そのとおり、ジムは街灯の柱に飛びつき縋って歌い出した。
《雨に歌えば:Singin' In The Rain……♪♪》を。
古典映画をパロってもじって、批評して……しかも物語の展開まで仕切って、と、批評家ジムはやりたい放題の狂言回しとなったラストシーンだ。
現代の映画は高度に発達してしまって、しかも観客の側も知恵がついているので、『雨に歌えば』のような古典的なエンディングシーンを描くことはもはやできない時代になった。けれども、ここまで見てきたような筋立てと人物配置の設定にすれば、こういういささか古びてはいるが洒落た終わり方の作品をつくることができるのだ。
| 前のページへ |