というわけで、普通の人びとが加入できる医療保険では、それほど高額の医療費の保険給付を期待できないので、保険契約者が自分で自由に優秀な医療機関や医師を選んで、診察や治療を受けるというわけにはいかない。だいたいは、自分の加入する医療保険の給付限度(給付率)に合わせて、あまり現金出費が高額にならないような料金で受診できる医療機関にいくことになる。
というよりも、保険会社が指定する医療機関以外では、保険給付が受けられない。つまり、疾病や傷害にさいして、自分でい医療機関を選ぶ自由・権利がないのだ。
保険会社はすべての病院について、保険会社の利益確保という観点から格付けをおこなっている。この格付けは、医療サーヴィスの質とか患者への治療の手厚さを基準にするのではない。患者の加入している保険の種類ごとに、赤字にならないコストの範囲で、できればコストをかなり下回る費用で、つまりより質と量を節減した(ケチった)治療をおこなう病院ほど高い格付けを与える。
そうなると、良心的な医療機関が手厚く患者をケア・キュアしたとして、回復後に保険会社に費用の保険給付を請求しても、保険会社が指定した医療機関以外での診療や患者が加入する保険契約の限度を超える費用は払わない。
そういう良心的な病院は、ますます格付けを下げられて、保険会社側の支払い基準が厳しくなる。
こういう選別制度を築き上げて、医療の世界にも資本主義の論理を徹底的に貫徹させる。格付けの高い医療機関は「金持ちのために」別枠で確保しておくのだ。
さて、この受診費用の不足分―――医療保険でカヴァーできない額――は、結局、病院が患者本人や家族に請求することになる。所得や資産のない人びとは払えない。そうなると、病院の財政は逼迫する。あるいは、受診者が払ったとしても、出費が多ければ、その後の生活が大変になる。
こういう事態を繰り返しているうちに、病院も患者も、加入している保険種類に合わせて自己抑制をかけることになる。手厚くケアしても、患者の自己負担額は重くなるばかりだし、病院としても費用回収のリスクが高くなってしまう。
多くの場合、患者は、一番望むような医療サーヴィスを断念して、ずっと質や量の低い治療を受ける。快癒するまで入院するということもない。保険でカヴァーできる日数だけ入院するしかない。あるいは、入院しないで通院治療にする。
このような自己規制で、毎年、多数の患者たちが完治しないで受診をやめたために死亡したり、病状が悪化したり、後遺障害が残ったりする。その経済的損失額は、年間数百億ドルにのぼるという。
また、多くの人びとは医師にかからず自己判断で処方箋もなしに一般医薬品を買って、――薬剤の注意書きを読みながら――自分の判断で服用することになる。これも、疾病の悪化や薬物依存症の原因になる。日本がこのところ真似しているアメリカ流の医薬品の販売規制の緩和・自由化は、こういう医療制度の欠陥を土台にしてのものなのだ。
政府や政治家は、医療保険や薬剤師制度がまったく異なるアメリカ資本(その利益代弁者としてのアメリカ政府)の圧力を受けて、こういう背景をほとんど説明せずに規制緩和を進めている。
さて、アメリカの公的医療制度の欠陥は、結局、社会的コストとして累積していく。
だから、救急搬送とか意識を失ってしまったときとかに病院に搬送される場合にさえ、どこの病院に搬送するかを医療保険会社が選択することにもなる。
医療技術は高いが、費用も高く、保険会社の負担(給付)額が大きくなって、赤字=損失が出ても困るからだ。
アンビュランス要員は、患者の手当てばかりを考えて優秀な病院に運び込むと、あとで保険がきかずに、患者がものすごく高い医療費支払いを迫られる場合も多いようだ。
人の命が、まさに財産や所得金額によって左右され、その軽重が計られる仕組みになっているのだ。
アメリカは、世界の最先進社会と「極貧の途上国」とが同居・混在する社会ともいえる。一般市民には「生存権」が保障されていない国家なのだ。