ところで30年前、アンドレイと楽団員をボルィショイ管弦楽団から追放したのは、筋金入りの共産党員で、当時の劇場総支配人のイヴァン・ガヴリーロフでした。
アンドレイの音楽家としての生命を一度奪ったのは、彼です。恨みは深い相手です。
ところが、アンドレイは、パリの一流劇場を向こうに回した大芝居をめぐる交渉役として、イヴァンを選んだのです。
その考えを知ったサーシャは、怒りをあらわにしてアンドレイを引き止めます。
「お前を追放してたたき潰したのは、あいつなんだぞ。何であいつなんかに」と。
ところが、アンドレイは反論します。
「私の知り合いで、流暢にフランス語を操れるのは、イヴァンだけだ。彼だって、支配人という仕事の任務として仕方なく党の命令を実行しただけだ。
楽団公演の交渉にかけては、あいつの右に出る者はいない」と押し切って、イヴァンに話を持ちかけました。
イヴァンは、今でも共産主義のユートピアを信じている頑固者です。今でも毎週末の共産党集会を仕切っています。
だが、ソ連レジームの崩壊で、彼も失脚してしまいました。彼もまた失意の日々を送っていました。どうやら彼は権力の階段を昇るためだけにではなく、ユートピアを信じてコミュニストになっていたようです。
しかし、無邪気にユートピアを信じ続けることほど、人を残酷にするものはないともいえます。当時、彼は(党のユダヤ人政策に逆らった)アンドレイに「お前は人民の敵だ!」と罵声を浴びせたました。
だから、アンドレイの指揮者復帰の画策に協力することを渋るかと思いきや、なんと二つ返事で引き受けたのです。何か彼なりの目論見があるらしいです。
イリーナも援護射撃でアンドレイの後押しをしました。
「いまや落ち目の共産党の集会への参加者を手配しているのは、私だよ。アンドレイを裏切ったら、もうあんたの集会に参加者(サクラ)は送らないからね」
この脅しは何より効いたようです。
その昔、ソ連共産党の大々的で仰々しいイヴェントを盛り上げたのは、人民の熱意ではなく、巧妙な動員体制だったという構造は、今でもミイラのように委縮しながらも、生き残っているようです。
だがとにかく、このささやかな策謀は走り始めました。
イヴァンはさっそくパリのシャトレ劇場支配人、オリヴィエ・モルヌ・デュプレシに電話をかけて、したたかな交渉を開始しました。「ボルィショイの支配人に復帰した」と偽って。
けれども、イヴァンもまた時代の波から取り残されて久しい人物です。したたかで抜け目のないフランス人に対して、交渉力は著しく低下しているようです。
相手に押されて、足元を見られて、ロシアの一流楽団の報酬としては破格に安い金額で公演を引き受けました。ただし、共演者には若手女性ナンバーワンのソリストを指名しました。
しかも、契約条件の1条項として、パリのレストラン「トゥル・ノルマン」での晩餐を認めさせました。
じつは、シャトレ劇場は今や未曾有の経営危機に直面していました。財政危機のために、本来呼ぶはずだったロスアンジェルス交響楽団の報酬要求に応じきれなくて、予定の公演をキャンセルされてしまったのというわけです。
その穴を急遽埋めるために、急きょ、ボルィショイに泣きついたのです。だから、想定外に低い公演報酬は「渡りに船」でした。
なにやらこの物語、落ち目の人物たちが起死回生を夢見て悪あがきすることがテーマなのかと訝りたくなります。
そこで、若手としては破格に高いヴァイオリン・ソリスト、アンヌ・マリー・ジャケを呼んでも、十分そろばんは合うわけでした。
とにかく、オリヴィエの目下の課題は、出演者のギャラと経費をとことん値切ることでした。