シャトレ劇場事務局は、契約条件にしたがって、アンヌ・マリーに公演を依頼しました。
ところが、アンヌのマネージャーのギュイレーヌは、指揮者がアンドレイだと聞いて即座に依頼を断ってしまいました。
生まれたばかりで両親を失った孤児、アンヌを親代わりになって育てたのは、ギュイレーヌでした。 命をかけてアンヌをロシアから亡命させ、いまや彼女を世界一流のヴァイオリニストに育て上げたのです。
ギュイレーヌは、アンヌの両親が死に追いやられたいまわしい事件の秘密を守るために、アンドレイやボルィショイ楽団とかかわりになることを恐れました。だから、アンドレイとの共演を拒否したのです。
29年前、モスクヴァに滞在していたフランス人音楽家、ギュイレーヌは、迫害されシベリアの流刑地に追われたユダヤ系の若い夫婦の幼児をアンドレイから託されたのです。その幼児がアンヌだったのです。
母親はボルィショイ楽団員で、天才的なヴァイオリニストでした。ユダヤ系の家庭に育ちました。
ところが、ブレジニェフのユダヤ人政策に逆らってアンドレイとともに演奏活動を続けたために、政権から迫害されたのです。
しかも、楽団追放事件を、自由ヨーロッパ放送のインタヴュウで暴露したために、当局の怒りを買い、夫とともにシベリアに送られてしまいました。そこで、追い詰められて、困窮のうちに夫妻ともに流刑の直後に死亡してしまったのです。
アンドレイは、流刑の直前に夫妻の乳児をこっそり引き取って、ギュイレーヌに託したのです。
ギュイレーヌは、事件後、チェロのカヴァーケイスを担いでフランス大使館に赴き、身柄の保護と帰国を申し込みました。チェロのカヴァーケイスに隠した赤ん坊の亡命申請をするために。
ところが、アンヌはギュイレーヌがシャトレ劇場からの出演依頼を断る声を聞いていました。
そして、協演相手がボルィショイ・オケで指揮がアンドレイ・フィリポフだと聞き出すと、ほかの演奏予定をキャンセルしても出演したいと言い張りました。
というのは、30年前、ソ連の強圧的なレジームに対して、楽団の自由と自立性を守るために闘って敗れ、それ以来指揮者のキャリアを失ったアンドレイの物語は、西側の音楽家、芸術家にとっては称賛の的だったからです。
そして、それまでのアンドレイは世界トップの天才指揮者として認められ、誰もが彼の演奏に憧れていからです。アンヌは古いLPでアンドレイ指揮のの演奏を聴いて崇拝していました。
しかも、この30年間、演奏指揮の演奏記録(録音)がないことが、さらにアンドレイの名声を幻想ないし信仰の次元にまで押し上げていたのです。音楽家にとって名指揮者、名演奏家の「失われた音源」の回復や再現、発掘はまさに財宝以上の価値を持つようです。
こうして、アンヌはシャトレ劇場での協演を強引に引き受けました。彼女はギィレーヌに、公演の前夜に打ち合わせを兼ねた夕食にアンドレイを招待することにしたいと告げました。