ロマ族のヴァイオリニストは、唖然としているアンヌの前に来ると、ヴァイオリンを持ち、ロマ族=ジプシー音楽の荒々しく素朴なメロディーを弾き始めました。優雅さのない粗雑だと感じる演奏に顔をしかめるアンヌ。
すると今度は、コンマスのヴァイオリニストは超絶的な技巧でパガニーニの変奏フレイズをいとも簡単そうに弾きこなしました。そのあとも変幻自在のチャールダーシュを繰りだします。
見事な演奏。超絶技巧! これまたアンヌは唖然として尋ねました。
「あなたはどこで音楽を学んだの」
「誰だい、この女性は」
日頃、ロマ族の音楽のなかで過ごしているこのヴァイオリニストは、訝って、逆にアンドレイたちに問いかけました。
彼はロシアの楽団から追われて30年、ヨーロッパ音楽世界のエリートコースを歩み続けてきたアンヌ・マリー・ジャケを知るはずもありません。
彼らロマ族の前では、キャリアや名声ではなく、今目の前で奏でられる音楽こそが、優秀な演奏家の存在証明なのですから。
それにしても結局、夕方まで、そのほかの楽団メンバーは誰もリハーサルに現れませんでした。
「はじめて演奏する協奏曲をこんな状態で弾くことはできないわ。アンドレイさん、このあとの夕食で、この問題について話し合いましょう」と言い捨てて、アンヌは劇場を後にしました。
その夕食の席でアンヌはアンドレイを責め立てることになりました。
「こんな状態で、あなたはチャイコフスキーの「ヴァイオリオン協奏曲」の演奏に臨むおつもり?」
という彼女の問いかけに、アンドレイは答えることができなかったのです。
だが、アンドレイは「どうしてもやりたいのです」と答えるしかありません。
なぜこれほど執拗にアンドレイがチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」にこだわっているのか。その理由は、アンヌの出生の秘密に直接結びついています。ですから、それを「彼女に告げてはならない」とギィレーヌに釘を刺されているアンドレイとしては、答えることができないのです。
アンドレイは、ただ強いコニャックを飲み続けるしかなかったのです。
ただし、この会話の前にアンドレイは、最近までの自分が置かれていた実情を告白しました。
政治的迫害によって指揮者の地位を失い仲間の楽団員を追放されたこと。失意の日々を酒で紛らすうちにアルコール依存症に陥ったことを。
そして、共産党のユダヤ人政策にもかかわらず、あのときアンドレイとヴァイオリンソリストのレア、そして楽団員たちがなぜか「ヴァイオリン協奏曲」にのめり込んでいったことを。
追い詰められた状況のなかで、あの協奏曲を完成することが、自分たちの任務だと思いつめていたことを。
あのとき、指揮者だった自分が政治的状況に配慮して演奏を自己規制していれば、少なくともレア夫妻のシベリア流刑は回避することができたはずだ。
なのに、思いつめるように「協奏曲」の演奏にこだわり続けてしまった。だから、アンヌの両親を死に追いやった責任は、自分にある。
アンドレイは、そう考えて、この30年間、自分を責め続けてきたのです。