けれども、「パリへの渡航」という課題に立ちはだかる難問は、これだけではなかったようです。
政権による迫害を受けた元楽団員たちは、当局によってパスポートを剥奪されていたのです。そのうえ、足りない楽器の調達もまだでした。アンドレイたちがこの事実に気づいたのは、出発の前日でした。
イヴァンとアンドレイ、サーシャは頭を抱え込みました。
ところが、楽団員のなかには、日々の糧を得るために闇市場や裏社会に通暁している者たちがいました。
何と、コンサートマスターを務めるヴァイオリニストは、ロマ族のメンバーでモスクヴァの闇市場を仕切る一族の指導者だったのです。
そのヴァイオリニストは、「出発までに必ず偽造パスポートとヴィザを手に入れてみせる」と請け合いました。そして、今足りない楽器は、フランスでパリの一族が必ず間に合わせると確約しました。ロマ族のネットワークはヨーロッパ中に張りめぐらされているようです。
とにかく出発の当日が来ました。
ところが、空港までメンバーを送り届けるために予約したバスは来ませんでした。空港までの4マイルを楽団員たちは歩くことになりました。
そして、まだパスポートもヴィザもないのに、国外渡航窓口まで行くことにしました。
すると、何と出国便ゲイト前のロビーで、ロマ族の一団が偽旅券発行の準備をして待っていたではありませんか。
彼らは団員達から旅券用の写真を受け取ると、ままたくまに旅券を作成し、ヴィザ押印をしてしまいました。いやはや、恐ろしいサヴァイヴァル能力、すさまじい行動力です。
かくして、一行は無事にパリに到着しました。しかし、空港に降り立ったメンバーの大半は、機内で酒をしこたま飲んですっかりでき上がっていました。
空港で出迎えたシャトレ劇場の事務局員は、フランス語のプラカードを持っていたので、楽団員たちとうまくコンタクトできませんでした。
というのも、団員達の服装はどれもみすぼらしくて、とてもロシアの一流楽団のメンバーには見えなかったからです。
それでもまあ、どうにか合流して、ホテルに行きつくことができました。
ところが、ホテルに着くや一悶着起きました。
日頃金に飢えているメンバーは、公演旅行の最初の1日目の日当を払えと劇場事務局員に迫ったのです。
劇場側は資金が底をついていて、楽団への支払いは、すべて公演が終了してからと決めていました。
つまり、ティケット購入者に対して契約上の義務(=演奏の提供)を完遂してから、と目論んでいたのです。
そのくらいに劇場の財政的信用は落ちていたようです。
仕方なく、事務局員は自分のクレディットカードで現金を調達して支払うことにしました。