1980年のソ連でのこと。世界的なマエストロ、アンドレイ・フィリポフは、ブレジニェフ政権のユダヤ人迫害・追放政策に逆らったためにボルィショイ・オーケストラの指揮者の地位を奪われてしまいました。
それから30年近く経た今では、ボルィショイ劇場の掃除夫をしています。だが、指揮者への復帰を夢見ています。
ある夜突然に、パリのシャトレ劇場からファクシミリでオーケストラ公演の依頼状が舞い込んできました。
事務所の清掃作業中にそれを見たアンドレイは、それを利用してフランスで指揮者に復帰し、かつて自分が率いた最高のオーケストラを復活させようともくろみました。
あの追放事件ののち楽団員たちは全員その地位を追われ、今は散り散りになっています。その昔の仲間を集めて、偽のボルィショイ管弦楽団を仕立て上げてパリに乗り込もうと企図したのです。
けれども、古い仲間たちはもう30年もまともなリハーサルや演奏をしていません。タクシー運転手やウェイター、闇市の商人などをしながら必死にその日を生き延びている、というありさま。
すでに楽器を手放した者さえいます。
アンドレイ自身も失意の日々を送っているのです。
家計の収入の大半は妻のイリーナが稼いでいるのです。
彼女は、集会やイヴェントを盛り上げる「サクラ=参加者」要員を調達し送り込む手配をして、まとまった報酬金額を稼いでいるのです。
しかし、サクラのニーズの出所は、怪しげなものばかり。
たとえば、落ち目の「共産党」組織とか、大物政商マフィアなど。
さて、アンドレイの親友、サーシャ(サハロフ)は、以前は天才的なチェリストでした。今では救急車の運転手をしながら、その日の糧を得ています。
今でもまだチェロの腕は確かなのですが、まともな演奏機会はありません。
昔の仲間たちは、ときどき集まってヴォトゥカを飲みながら、遠い昔を懐かしんでいます。ところが、アンドレイは仲間からの酒の勧めをいつも頑固に断っています。
というのは、最近ようやくアルコール依存症から回復し、自分らしさを取り戻しかけたたばかりだからです。
失意と荒廃の日々が彼を精神的に追い詰め、ついに彼は酒に溺れたのでした。妻のイリーナの支えで、今ようやく何とか人間らしさを回復しつつあるのです。そして、指揮者の地位の奪還と楽団の再建という野望さえ抱くほどに、人生に前向きに――いや前のめりに――なりました。
そのアンドレイが、パリの有名劇場でのチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」演奏をめざすのは、打ち砕かれた自己の尊厳を回復し、過去の「負い目」を解消するためです。この曲が彼の人生の転換点になったということのようです。
自己尊厳の回復のためには、この協奏曲の演奏がどうしても必要だと固く心に決めているようです。
けれども、アンドレイの目論見を知ったサーシャは、「今はもう無理だ、無謀な冒険はやめた方がいい」と言い出しました。だが、アンドレイの想いと才能を知るイリーナは夫の決意を後押します。
これは私の勝手な推量ですが、冒頭で演奏会のモーツァルトのピアノ協奏曲を演奏したピアニストはイリーナで、指揮者はアンドレイという設定なのかもしれません。
というのも、イリーナも才能豊かなピアニストでしたから。
そして今、どんなに貧しくなっても、自分のグランドピアノ――相当に高価なものらしい――を手放さなかったからです。ピアノは彼女の最後の砦、よりどころなのではないでしょうか。
かつてアンドレイはイリーナを身をもって庇ったりして、音楽家どうしとして心から信頼関係を築いたのではないかと思います。
現在のイリーナの献身は、2人の深い愛情と信頼関係抜きでは考えられません。泣かせますねえ。