ところが、ある真夜中、この郵便配達人が牧師館に忍び込んだ。そして、怪しげな気配に気づいたレイラに取り押さえられてしまった。
郵便配達人はなぜ、何が目的で牧師館に進入したのか。
彼は、殺人犯であったレイラを同居させている牧師の身の上が心配で、夜警のつもりで忍び込んだのか。あるいは、何かを盗み出すつもりだったのか。
牧師館には、金目のものはない。
この映画を見た人びとのあいだでは、次のような憶測が飛び交ったらしい。すなわち、この物語では……
すでに何年も前に、――おそらく、かなり高齢になったため、フィンランドの教会組織ではヤーコブ神父は「定年扱い」されたことから――ヤ―コブ神父が世間から忘れられてしまっていたため、もはや神父あての手紙が届かなくなって久しい。ところが配達人は、神父に生きがいを持ち続けてもらうために神父のベッドの下に積んである過去の手紙を盗み出し、新たに届いた手紙として「再利用」しているのではないか、という見方だ。
だから、牧師自身が言うように、同じ内容の手紙が何度も届くこともあったわけだ。そして、牧師館にレイラが来てからしばらくすると、郵便配達夫は手紙を盗み出すことができなくなって、ヤーコブあての手紙が来なくなったはのでないか、というわけだ。
このフィンランド映画は、世界中で話題となった。だが、シンプルすぎるほどの物語の描き方のために、描かれていない(語られていない)事情がいくつもある。そこで、欧米では描かれなかった事情や背景について、さまざまな憶測が飛び交ったようだ。
私はネットの世界を彷徨いながら、いくつかの外国語記事を拾うなかで、そんな話題や憶測を知ることになった。
しかしながら、映像物語自体のなかでは何も説明されない。観客自身が好きなように解釈するしかない。というよりも、この映画は、観客が映画に描かれたこと素材にして自ら考えるようにつくられているということだろう。
私としては、上記の憶測が物語の流れのなかでは一番自然でありそうな事情だと思う。そういう背景があるとすると、郵便配達人が過剰なまでにレイラを邪魔者扱いして牧師館から追い払おうとしたことの理由が明らかになる。