この物語(二―ル・ジョーダン家督1989年版)は、1955年の同名の作品のリメイク版だというが、オリジナル版はレイナルド・マクドゥーガル脚本。この脚本は、フランスの舞台劇『天使の手料理』(アルベール・ヒュッソン作: La Cuisine Des Anges, by Albert Husson)を翻案したブロードウェイの舞台劇『私の3天使』(サミュエル&ベラ・スピウォック作: My Three Angels, by Samuel and Bella Spewack )をもとにしているという。
ウクライナ生まれのサミュエルとルーマニア生まれのベラの夫婦は批判精神に富んだな舞台劇作家で、貧富の格差とか社会の仕組みや権力者の過酷さを巧妙に描くのが得意だった。89年版でも社会の底辺であくせく生きる人びとの逞しさとせせこましさが巧妙に描かれている。
原題は We're No Angels で、もっとニュアンスを正確に訳すと「俺たちが天使であるはずがない」ということになろうか。
英文で述語 be 動詞の補語に no をつけた否定文にすると、 be not の否定文に比べて、文意がよりカテゴリカルになる。つまり、「何なにというカテゴリー」には決して属さない、「それ以外の存在だ」という否定判断の意味合いが強くなる。論理学上、補語の部分だけが「否定の全称命題」となるのだ。「ほかの何であっても、けっしてそのカテゴリーではない」と。
そこで、この原題だが、「俺たちは何であってもいいが、とにかく天使ということだけは決してありえない」という含みを帯びる。
もとより、ここでは「エインジェル:天使」とは、神の使い、人びとにとっては救いや福音をもたらす者という意味だろう。
そんな善なる者ではないとは言いながら、「したたかさ」や「せせこましさ」だけでなく、弱さも人並みの善意だて持ち合わせているんだという心意気が感じられる題名ではある。
見どころ:
主人公の脱獄犯の2人、めざすものは「他者の救済」ではなく、ひたすら「自分たちの救済」である。利己欲だけ。とにかく「助かりたい」のだ。そのために、他人はすべて、自分たちの逃走の手段にしか見えない。
だが、2人は、カトリック神学界において革新的な「魂の救済」に関する関する著書を共著で刊行した、有名な神学者たちに化けて、修道院に逃げ込み、修道僧たちと生活をともにする。そのせいか、いく分心の持ちようが変わっていく。
で、最後に1人は命がけで他人を助け、もう1人は、自分のなかに眠っていた神学徒としての素質に目覚めてしまう。
1955年の同名作品とはまったく別の(インスパイアされてはいるが)作品。
ロバート・デニーロとショーン・ペンの演技は、「小心の小悪党」――というよりも、たまたま犯罪者になってしまった、気の弱い善人――振りを見事に表現している。
| 次のページへ |