ある日、ミドリが外出中、マルク・ペルトラ――愛称はマッティ――という名の中年の男性が1人来店して、カフェを注文した。中背でがっしりした体格の男だ。
サチエが入れたカフェを飲んで「うまい」と感心した。ところが、「もっとうまいカフェの淹れ方を教えようか」と言い出した。
淹れ方のコツは、挽いた豆に最初の1、2滴を熱湯を垂らすときに「コピ・ルアック」という呪文を唱えることだった。実際にマッティの淹れたカフェを飲んだサチエは「うまい!」と感動した。
マッティは言った。 「自分が淹れたのよりも他人が淹れてくれたカフェの方がずっとうまく感じるのさ」
マッティは2杯分の代金を置いて、店を出ていった。
マッティの、カフェに対する真摯なというか執拗な「こだわり方」が描かれている場面だ。
サチエが自分でそのやり方でカフェを淹れたときに、ミドリが戻ってきた。ミドリに飲ませてみると、「豆を換えたんですか、ずっとおいしい」と感動した。
呪文一つでカフェの味が変わるのだろうか。それとも、最初の数滴のタイミングの取り方が、呪文を唱えることで変わるのだろうか。
「コピ・ルアック( kopi luwak / kopi luakk )」とは、インドネシアの言葉で、本来は、赤い果肉がついたままのコーヒーの果実をジャコウネコ――現地語でルアク――が食べてした糞のなかに残されたコーヒー種子を挽いて焙煎して淹れたカフェのことだという。最高級のヴァニラを加味したような風味だという。ジャコウネコの糞は世界で最高級の芳香剤、香水の原料となる。
ところが今では、ジャコウネコのほかに、コーヒーの果実を食べた小鳥獣の糞に含まれるコーヒー豆を材料とするものすべてを言うらしい。もちろん、ジャコウネコの糞中の豆が最高級で、「本物」は1杯数万円から十数万円もするらしい。そのほかの鳥獣のものは、もっと安いらしい。
■悲しむ女性■
そんな「かもめ食堂」の様子を、窓越しに悲しげな茫洋とした目つきで眺める中年女性が現れた。
髪の手入れもせずに、服装にも気を回す余裕すらないような姿で、茫然自失の表情だった。サチエが軽い微笑を返すと、無表情に立ち去った。
ミドリは気味悪がった。
数日後にまたその女性がやって来て、店のなかを眺めて、憮然とした面持ちで立ち去った。深い屈託を抱いているらしい。
気味悪がるミドリに「どこにいても悲しい人は悲しいんですよ」とサチエが呟いた。