さて、すっかり常連になったマサコだが、これまではカフェだけを注文していた。ところが、ついにカフェだけでなく和食を食べる場面となった。
注文したのは、おにぎり。「ついにこの注文が来た!」とばかりに、サチエは張り切ってつくった。
そして、おにぎりを乗せたかごをマサコのテイブルに運んだ。
そのとき、店にはかなりフィンランド人の客が来ていた。彼らは全員、「おにぎり」という食べ物にがぜん注目した。外から見る限りでは、丸く固めたご飯だけ、あるいはそれに海苔を巻いただけ――もちろん、ご飯のなかにはお菜=具が入っている――の、ごくシンプルな料理に驚いたのかもしれない。
で、彼らは食べたり飲んだりするのを止めて、おにぎりを食べようとするマサコを見つめた。息を飲んで見つめている。
みんなの注目を知ってか知らずか、マサコはしばしおにぎりを見つめた。そして優雅に手で取ってから、おにぎりに齧りついた。そして、にっこり。やはり、日本人にとって、おにぎりは格別の食べ物なのかもしれない。
マサコが美味しそうにおにぎりを食べるのを見て、ほかの客たちはほっと安堵して、ふたたび自分の飲食物に手を伸ばした。
このおにぎりに注目するシーンは、この作品のクライマックスかもしれない。フィンランド人たちがおにぎりという日本食を知り、注目する場面なのだ。
すっかりかもめ食堂の顔なじみになったマサコも、店を手伝うことになった。食堂にやって来る客数もだんだん増えてきたから、うまいタイミングで人手――しかも日本語が通じるスタッフ――を増やすことになった。
そんなある日、あの悲嘆にくれて茫然自失したような中年女性がまたまた窓の外に立っていた。今日は前よりも思いつめたような顔つきだった。彼女は意を決して店に入ってきた。
ものすごく険しい表情で。そのため、ミドリは腰が引けてしまった。
その女性は言葉をぶつけるように「コスケンコルヴァを!」と注文した。
コスケンコルヴァとは、すごく強い蒸留酒だという。アルコール濃度が38%〜60%で、無色透明、ブルーベリー風味もあるとか。原料は主にジャガイモ、麦類などデンプン質を含む植物で、ブドウやブルーベリーなどを足して再発酵させる高級なものもあるらしい。
サチエが女性のテイブルにコスケンコルヴァの瓶を持っていって、小さなグラスに注いだ。女性はあおるように一口で飲みほしてしまった。目がすわったところで、サチエにも酒を勧めたが、サチエは断った。ひるんだのだ。
すると、彼女は「誰か付き合ってくれない!?、おごるわよ」という目つきで周囲を見回した。そして、マサコと目が合った。マサコがうなづいた。
というわけで、サチエはグラスをマサコのテイブルに移して、1杯注いだ。マサコは平然と飲みほした。
あの中年女性はマサコの隣に移ると、グラスを引き戻して人さし指を上げた。「もう1杯」ということだ。
だが、飲み干す前にアルコールが回って倒れてしまった。3人は駈けよって介抱しようとした。
結局、トンミが女性を背負い、サチエがトンミのバッグをもち、ミドリがトンミの自転車を押し、マサコが付き添って、その女性の家まで送り届けることになった。家に着くと、食堂の女性3人が女性の手当てを始めた。
なかでもマサコは女性を奥のソーファに座らせて水を飲ませて、女性に語りかけた。「ヤケ酒」の原因となった彼女の悲しみ(屈託)の原因を聞き出そうとした。というよりも、女性の打ち明け話を、うなづきながら聞き取る役目を引き受けた。
もちろん、マサコはフィンランド語を知らない。だが、身振りを交えて話す女性の言い分を正確に理解したようだ。
女性が落ち着きを取り戻したので、3人は店に戻ることにした。
サチエとミドリはマサコの介抱の手際がすばらしいとほめた。マサコは、病身の両親の介護で培ったものだと語った。
サチエはマサコに、女性が訴えていた苦悩は何だったのかと尋ねた。
「あの女性の夫が先頃、突然に『もう一緒に暮らせない』と言い出して急に家を出ていってしまったということです。
愛していたのに、理由も告げずに出ていってしまって、彼女は途方に暮れ、深く悲しんでいるのです」
というのが、マサコの返答。
「マサコさんはフィンランド語が理解できるんだ!」 と2人が感嘆すると、
「いいえ、まったくわかりません」というのが、マサコの返答――でも、彼女の言い分はわかりましたという顔つき。
だが、2人は妙に納得してしまった。トンミによると、会話の内容はそのとおりらしい。相手の苦痛や苦悩を読み取る(聞き取る)のは、マサコの能力なのだろう。