ところで、ここではフィクションとして強奪にあった名画の作者、画家のエル・グレーコについて簡単に触れておこう。
エル・グレーコとはギリシア人という意味だが、イタリア語からエスパーニャ語に転用された言葉だ。この画家の本名はドメニコス・テオトコプーロス(1541年生〜1614年没)。ヴェネツィア領クレタ島のカンディア――現在のイラクリオン――出身で、イタリア暮らしを経てエスパーニャのカスティーリャ王国トレードに移住した。
当時16世紀後半にはヴェネツィアは没落しつつあったが、いまだ地中海東部に多数の交易拠点からなる海洋帝国ネットワークを保持していた。23歳頃にはドメニコスは絵画の師匠となっていたようだ。クレタは文化的にはビザンツ帝国の影響下にあったため、ドメニコスはイコン画の伝統を受け継ぐビザンティン様式の強い影響下で絵画技法を学んだものと見られる。
ドメニコスは27歳頃までには北イタリアのヴェネツィア本領に移住し、そこで後期ルネサンスからマニエリズムにいたる思想や手法を学んだようだ。絵画の思想や技法としての色彩論、遠近法のほかに、構図の基礎となる解剖学や建築論、自然哲学なども習得したであろう。
ところで、ルネサンス様式は調和と均衡を美の基準としたが、これが権威をもつ様式として確立普及すると、やがて様式としての方法論や枠組みを固定化してしまい、その踏襲を土台にして過度の精緻化や誇張、歪曲によって斬新さを求めるようになった。このような方法観がマニエリズムで、のちにマンネリズムという蔑称の語源となった。とはいえ、過度の誇張や歪曲は均衡・均整の破壊への傾向を内在させていたから、いわばバロック様式への過渡期ともいえる。
さて、30歳前後でドメニコスは、イタリア地域では教皇庁の膝元都市として隆盛してきたローマが芸術の中心となりつつあったことから、ローマに移住したが、修行のためにイタリア各地を遍歴していたようだ。その数年後にはエスパーニャに移住した。イタリアでの彼の呼び名ギリシア人がエスパーニャで定冠詞が変わってエル・グレーコとなったようだ。
それにしても、クレタ島で生まれ育ち、イタリアで学んだエル・グレーコはマニエリズムという形容では収まり切れない業績を残している。
サンドラがヴィクターの電話を受けたのは真夜中だった。
彼女のベッドには、怖がりだがホラー映画が好きな娘のアリスンが入り込んでいた。怖くなって母親のベッドにもぐりこんだらしい。翌朝早くフライトするために、サンドラは別居中の夫、ブルースに電話してアリスンの世話を頼んだ。
ブルースは、アイリッシュ系アメリカ人の比率が多いニュウヨーク市警の捜査官だった。ブルースは、いったいに男性優位を当然と思い込むアイリッシュ系――しかもカトリック――の男性にありがちな性格や行動スタイルに属していた。キャリア志向のサンドラは夫の古臭いスタイルに閉口したため、しばらく前から夫と別居していた。
だが夫側にも言い分がある。ブルースとしては、画家あるいは美術史家をめざしていたサンドラが、厳しい競争から転身して絵画取引のエイジェントの職を選んだため、その代償行為のようにエイジェントしてのキャリアを追い求めることに閉口していた。新たなキャリアを築くために、自立した女性像を追い求め、アイリッシュ系のいささか古いスタイルの夫には機会を見つけては論争を挑むのだ。
さて、サンドラとしては、イングランドの大富豪ヴィクターの歓心をつなぎとめるためにも、エル・グレーコ奪回に全力をあげるしかなかった。
サンドラは空路バルセロナに飛んだ。美術館に到着すると、ヴィクターが出迎えた。歓迎するというよりも、サンドラに圧力をかけて尻を叩き、警察の捜査にたたちに協力させるためだった。
盗難に遭った美術館のエントランスには、バルセロナ警察のルービオ警視が待っていた。サンドラは、彼の案内で館内での捜査陣に加わった。そこには、画学生(大学院生)の頃に親密だったダニエル・マーリンがいた。バルセロナの美術大学の教授として、絵画窃盗事件の捜査に協力していたのだ。
ダニエルも画家をめざしていたが、今は画家としての才能に自ら懐疑を抱いていて、もっぱら教える側として学生の絵画制作を指導していた。互いに久しぶりの再会に喜び、旧交を温め合った。