というわけで、この物語では一連の絵画強奪事件の背後で糸を引いていたのは、絵画蒐集主家のヴィクター・ボイドだった。
ヴィクターは、画家としての自分の才能に見切りをつけたダニエルを操り、彼の「弟子たち」を強奪一味に仕立て上げ、エル・グレコの作品を盗み出させたのだ。画家が自分の才能や資質に見切りをつけるときには、そこまで虚無的になるのだろうか。ダニエルはそれまで周囲から天才と目され、自らも自任していたのだろうか。
さて、このプロットには、絵画泥棒にとって最有力の「顧客」のなかには、有名絵画に執着する蒐集家がいるものだという事情が描かれている。通常一般の絵画オークションでは手に入れることができない古典的名作に病的なまでに執着して独占しようとする人びとだ。
犯罪行為をおこなってまで、絵画を手に入れたいという欲望が、蒐集家を狂わせるというわけだ。
だが、犯罪によって手に入れた作品を所有するという名誉や優越感を、他人に見せつけるわけにはいかない。人知れず所有する事実に満足することになる。つまり自己顕示欲ではなく所有欲によるものだ。すでに富豪として名を知られているから、自分の権威の誇示にはもはやそれほど関心がなく、密かに所有する優越感や満足感を得るためだろうか。
ところが、非合法な手段で手に入れた絵画は、どれほど高価な評価額がつこうと、通常の市場で大っぴらに売り払うわけにもいかない。金に困っても。いや、すでに固めた地位からして金に困ることはないほどの富豪なのかもしれない。
とはいえ、大富豪や名門家系を顧客として古典絵画を売買する闇市場や非公開の取引市場があるらしい。没落しかけた名門家系が密かに資金を得るために名画を手放すときには、売買の事実を秘匿することも多いようだ。あるいは脱税のために。
とりわけ、絵画を盗まれてしまって何とか取り戻そうとしている美術館や、元の持ち主たちは、非合法の所有者たちからの「非合法・非公開の取引申し出」に応じることは、これまでにいく度もあったという。
だが、取引に応じて金を渡したが絵画は戻されない場合もあるようだしか、また贋作を受け取るリスクもあというる。こういう絵画返還詐欺のリスクを回避するために、被害者たちが――前回取り上げた――絵画探偵ハロルド・スミスをはじめとする「盗難美術品調査」を専門家に仲介を依頼することがあるのだ。
鼻の利く調査専門家たちは、事件発生のニュウズを聞くと、すぐに経費自前で独自の調査を始めたり、インフォマントに渡りをつけたりする。そして、盗難品の返還――買い戻し――の道筋を見つけ出すと、自ら仲介者として名乗りを上げる。そして、取引を成功させれば、成功報酬として何がしかのコミッションを受け取る。
高額な作品になると、コミッションが取引額の数%でも――百万ドル以上の――かなりの額になるから、商売としては成り立つ。
そのために、つねに絵画泥棒の世界や盗難美術品の闇市場に関する情報を追跡・調査していなければならない。凶暴な強奪犯もいるから、いつも大きな危険と隣り合わせだ。
高額の絵画は結構な金融資産であって投資や投機の対象になるからロイズなどの保険会社にも、こういう捜査を専門とする部門もあるようだ。サザビーにも公開されたオークションでの取引きのほかに、半ば以上秘密の絵画取引も扱うらしい。というのも真贋の鑑定が必要になるし、所蔵・保管場所の確保のためのノウハウもあるからだ。
何よりも彼らの顧客がとびきりの大金持ち、つまり巨額の金融資産を保有する超のつくエリート家門であるのだから、無理もない。