ダニエル・キースの短編小説『アルジャーノンに花束を』の物語は、日本では21世紀になってから大きな話題を呼んだ。脚色された物語がNHK・FMの青春ドラマシリーズで放送され、その後、ドラマや演劇にもなった。
だが、私の乏しい記憶では、今から35年ほど前――その頃私はテレヴィを一切見ない生活をしていた――、1959年の短編をもとに制作したラディオドラマ―ーNHK総合で放送(再放送かもしれない):長さは40分くらいか――で聴いて、とても深く感動した覚えがある。
このラディオドラマは「幻の名作」で、主人公チャーリーとキニアン女史との恋愛物語は挿入されていない――短編の原作どおり。
むしろ「余計な挟雑物」がなかった分だけ、「人間にとって知性とか知識」「知性ににともなう自己意識とは何か」という問題がより明快に提起されたように思う。
今、この古い方の短編ラディオドラマは、ネットで検索してもヒットしないようだ。残念だ。 古くからのSFファンには、この方がずっと好ましいのに。
とはいえ、恋愛模様を挿入した66年版の小説が、若いファンを獲得したので、ダニエル・キイスの名前と作品を世に広げるためには大いに役立ったことは、間違いない。
この物語で知性や知識、知能の意味を問い直すということは、当然のことながら、主人公のチャーリーのような知的障害を持つ人びとに対する社会の態度とか、彼らが「健常者」といっしょに暮らす社会の仕組みはどうあるべきか、という問題群をも同時に提起する。その意味では、じつに深く重いテーマを扱った物語だ。
そして、「人並みの知能や知性」とは、羨望や嫉妬、悪意、世の中での生存競争で「勝ち抜く」ための欲望、競争心、名誉心、人を蹴落としても平気な冷酷さなどの意識や感情、打算をともなうのだ。
もちろん、あらゆる植物も動物も種のあいだだけでなく、同種内の個体間でも生存競争をしているから、知性というものがなくとも「他者を出し抜く」とか「生存環境の奪い合い」はあるのだが、ヒトはそれを知性を媒介させておこなうので始末が悪い。
前置きが長くなったが、今回は1968年版のアメリカ映画《 Charly 》について考察する。
映画の原題は Charly で、日本語版題名は原作に沿って『アルジャーノンに花束を』となった。
その物語の本来の原作は、短編小説 Daniel Keyes, Flowers for Algernon ( the short story ), 1959 。
原作そのものの来歴としては、ダニエル・キイスの短編小説「アルジャーノンに花束を」が1959年(『ファンタジー&SFマガジン』に公刊され、その後1966年に長編小説に改編された。
映画の原作は66年版長編小説にもとづて脚本が起こされた。60年代後半になってから欧米で話題を呼んだのは、ロマンスを含む長編小説の物語が注目されたからだった。「普通の知性」には当然、恋愛感情も含まれるから、長編の方が内容は豊かになっている。
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