こうして新たに台頭した王や君侯たちが、音楽のパトロンになる。王国内の有力貴族や地方領主を宮廷の周囲に引き寄せ、王室を頂点=中心とする権威のヒエラルヒーのなかに取り込むための文化的装置が必要になってきた。
そうなると、宮廷に有力な音楽家を雇い入れたり、高額の褒賞でオペラの創作やメヌエット、セレナーデなどの作曲を覚えめでたい音楽家に委託することになる。
名声を得た音楽家=演奏家たちを宮廷の従者として雇い入れるようになる。
もちろん、現代のように大衆的な舞台での演奏会や公演のためではない。王宮や邸宅など、特権身分の閉鎖的なサークルのなかでの催事や行事のためだ。贅を尽くした夜会とか舞踏会、儀典などのためだ。
つまりは、王権や君主の権威を誇示する場を飾る装置として音楽(ことにオペラ)が利用されるようになった。
そのさい王や有力貴族の従者あるいは侍者(召使い)にすぎない音楽家たちは、「ご主人」のためにひたすら演奏しなければならず、行事を楽しむゆとりはなかった。
その場合の楽曲はといえば、ごく特定の行事や儀式だけのための特別の音楽を注文する音楽なのだ。
そして、その場で実演され、それだけで完結してまう。楽曲も楽譜もその場で使い捨てである。これはドイツでは「その場だけの音楽:Gelegenheit-musik」と呼ばれた。
だが、ごくたたまに、行事に参加した有力者がいたく曲を気に入り、主催者から許可を得たり、ひそかにお付きの音楽家に楽譜に起こさせたりして、再演し、やがて世に広まることも、まれにあることはあった。
しかしほとんんどは、その場だけで利用され消えてゆく音楽で、芸術性とか作品性が認められ評価されるものではなかった。
そのために、17世紀から18世紀にかけて作曲された音楽(即興曲、協奏曲やオペラなど)の多くは、楽譜が散逸、消滅してしまって、現代まで残っていない。
それゆえ、曲のオリジナリティ(著作権)が認められるはずもなく、他人がつくった旋律を利用したり、一度つくった旋律を使い回すことはざらだった。作品としての独自性・独創性がないのなら、盗作や剽窃、二番煎じという非難もないということだ。
だが、18世紀になると、出版印刷がヨーロッパ各地に普及して、特権身分や富裕階級のあいだで人気の音楽の楽譜を印刷刊行する動きが見られるようになった。モーツァルトは、ちょうどこの端境期に登場した。
その頃、楽器はおそろしく高価で、奏法の学習も金がかかるものだった。つまり特権的地位にある家系とか、ものすごく富裕な家系でしか手に入れられないものだった。したがって、権威や地位の誇示のために楽器を購入して演奏を習うことになった。
はじめは貴族たちの家族が楽器の演奏技術を習得し家庭内で演奏するのがステイタスシンボルとなり、そのために音楽の記録としての楽譜が出版されるようになった。次いで、富裕ブルジョワがこれを模倣していく。
そうなると、一方では音楽家たちは有力家系の音楽教師(ヴァイオリンやチェンバロ、フルートなど)として雇われて収入を得たる機会を得た。他方で、楽譜として出版した音楽作品の評価や売れ行きが、音楽家の収入源を左右するようになった。
こうして作品性と音楽家の名声の萌芽ともいうべきものが生まれた。そして、王や貴族に従者として雇われる関係の外に音楽家の生きる道が開けるかもしれない可能性が生まれようとしていた。
また、大きな都市には富裕商人や法律家や会計士などの専門職が集まっていたので、彼らもまた貴族や上流身分の音楽趣味を模倣するようになる。前売りの入場券を売って開催する「予約演奏会」も開催されるようになる。
地位にも権威にも恵まれなかったモーツァルトは、収入を得るため、楽譜の出版やら予約演奏会で報酬を得ようと奮闘することになる。出版物商品となったために、モーツァルトの作品の多くが後世に残されことになった。
ところが、その前の世代に属し、またオーストリア宮廷から豊かな報酬を得ていたために、楽譜の出版には関心を示さなかったサリエーリの作曲の多くは散逸、消失してしまった。歴史の皮肉だ。
それに比べると、バッハは幸運だったかもしれない。
雇い主=顧客が北ドイツのプロテスタント教会組織や君侯、有力商人だったからだ。ことに教会は、当時飛び抜けて資料収集、記録文書保管の技術やノウハウに長けたインテリが集合した機関だった。しかも、カトリックに対抗してプロテスタント風の教会音楽をつくり出そうと模索していた。
音楽関係でも、楽譜の記録、写本、保管を意識的に追求したり、あるいはミサ曲や声楽を民衆に伝達し普及しようとする意欲が、ほかのどんな権力組織よりも強かったのだ。
もちろん、古代ギリシアやアラビア以来の音楽理論や書籍が収集保管されているという利点もあった。