アマデウス 目次
原題と原作について
見どころ
あらすじと状況設定
アントーニオ・サリエーリ
発  端
輝かしいキャリア
2人を隔てるもの
〈神の寵児〉と父親
天才児と英才教育
立ちはだかる父親
音楽旅行
父親コンプレクスと反発
ザルツブルクでの鬱屈
挫折の味
身分秩序の壁
権力と芸術
権力の飾り物
世俗権力の成長と音楽
音楽は特注品で使い捨て
芸術性の芽生え
楽器の開発・技術革新
ひょんな出会い
楽曲の美しさとの落差
ヨーゼフ2世の宮廷で
ドイツ語歌劇
アマデウスの結婚
募る嫉妬と反感
父親コンプレックス
父親の顔つきと表情
サリエーリの計略
フィガロの結婚
妨害工作
天才は時代を先取り
父の死の打撃
アマデウスに死を
天才の早逝
そのほか諸々もろもろ
妻、コンスタンツェのこと
ザルツブルク大司教との対立
バロックからモーツァルトを経てベートーフェンへ

父の死の打撃

  とかくするうちに、1787年5月、長らく病床に臥していたアマデウスの父親レーオポルトが死去する。
  映画では、仲間と遊び歩いてから帰宅したアマデウスを、ザルツブルクから父の死の報を携えた使者が待ち構えていた。
  実際のところは、『フィガロ』はプラーハでは大好評を得たものの、ヴィーンでのモーツァルトの興行成績は思わしくなく、リカヴァーするために劇場との交渉やら立て続けの作曲やらで、アマデウスとしては父の病気は気がかりだったが、忙しくて気が回らなかったようだ。

  いずれにしても、厳格な「教育パパ」にして人生の指導者だった父を失ったショックは尋常ではなかった。アマデウスはひどい神経衰弱(ノイローゼ)に陥った。
  今になって気づいてみれば、大事な父親とザルツブルクからの脱出や結婚などで、このところずっと対立してきた。その仲直りもできないうちに、自分の忙しさに紛れて、病気見舞いに行けないうちに死なせてしまった。
  深い後悔がアマデウスの心を責め苛んだようだ。

  ところが、天才モーツァルトは、この深い苦悩をその作品に盛り込み、音楽性とコンセプト(哲学性?)に大きな深みを与えたという。「転んでもたたでは起きない」と見るべきか、あるいは天才の天才たるゆえんは、自分の心の懊悩すら素直に楽曲に鋳込んだうえに芸術的に昇華させて作品に表出し、創造力を高めてしまうところなのかもしれない。

  『のだめカンタービレ』では「モーツァルトはピンク」だ――オーボエ協奏曲にちて――という色彩的評価が提示されたが、モーツァルトの作品はものによってピンクもあれば、太陽の輝きの色もあるし、いぶし銀もあるし、深いグレイや深淵のような深い青緑もある。軽さと重さ、浅さと深さがさまざまだと思う。
  ともあれ、アマデウスは、父親喪失の苦悩をオペラ『ドン・ジォヴァンニ』に投影して、これまたヨーロッパの音楽史に1つの大きな画期をもたらしたという。

  映画のなかではサリエーリは、自分の軽薄な欲望のために女性たちを食い物にする(挙句の果てに、ある女性の父親の司令官を謀殺する)悪辣なドン・ジォヴァンニの姿には、父親を苦しめたアマデウス自身の姿を重ねている――公開と懺悔を込めている、と見た。
  尊大な人間は、かくも自己中心的で、横暴、残虐になれるものだ、という自己批判を込めている、と。
  そして、地獄に落ちてから、過去の自分の罪業を暴かれ自覚し、後悔・慙愧に懊悩する。許しを請う資格すらないことに気づく、と。
  そんな人間洞察や思想を、モーツアルトは美しい音楽の構成物として世に問うたのだ。
  ドン・ジォヴァンニの劇的な犯歴とその後の精神の闇とか懺悔の苦悩を、精妙な音楽・歌曲が増幅し修飾する。
  ここでも、サリエーリは打ちのめされてしまった。

  まあ、軽妙洒脱な物語が多いイタリアンオペラでは、これまで題材にしてこなかった「深い精神的テーマ」をこれほど陰影豊かに取り上げたという点では、実際のサリエーリも、モーツァルトの才能に驚嘆したかもしれない。
  だが、これは、個性や才能だけでなく、芸術家が位置する歴史的な時代と状況の差がもたらしたものかもしれない。

アマデウスに死を

  サリエーリはついにアマデウスに明白な殺意を抱く。

  さて、物語では、モーツァルトは父親の死で苦悶して体調を崩しながら、何かに憑かれたように作曲に没頭する。酒にも溺れ気味なった。
  作曲に追われるようになったのは、派手な遊興による浪費で生活費が逼迫したからだ。ところが、稼いだ金はすぐに浪費で消えてしまう。ここでは、モーツァルトは放蕩者で浪費家として描かれている。

  実際には、モーツァルト自身のヴィーンでの生活は慎ましやかだったという。だが、生活費にも事欠く状態になったのは事実らしい。
  原因は、モーツァルトではなく、妻のコンスタンツァェにあった。何しろ家付き娘で、マイペイスな女性だったらしい。頭はすごくよかったようだ。モーツァルトが作曲や演奏会で稼ぐ金を、洋服代やら、子供連れでの温泉保養などにつぎ込んだのだ。
  さらに、モーツァルト夫妻は引越しを繰り返した。これがさらに家計を苦しくしたようだ。
  わがままな家付き娘の妻を喜ばせるためるために、モーツァルトはひたすら作曲に打ち込み、金を稼いだ。いくら稼いでも足りなかったようだ。が、それでも、アマデウスは妻を深く愛していて、その妻に尽くすことが幸福だったようだ。

  映画では、とにかく生活費に逼迫して作曲に追われ、しかも不摂生が祟って健康を害しつつあるモーツァルトに、サリエーリは大金を渡して鎮魂曲(レクヴィエム)の作曲を注文する。
  それは、アマデウスを死に赴かせるための暗示だった。疲労困憊しているアマデウスにさらに重い作曲――死を暗示するような内容の楽曲――の負担を負わせることで、死に至らしめようというのだ。
  これは、鎮魂曲ということで、父親の死についての苦悩・苦悶を絶えずアマデウスの心に呼び起こし、責め苛むためなのだろう。
  そのために、サリエーリはレーオポルトの「亡霊」に似せた格好をして、冬の寒い真夜中にモーツァルトの住居を訪れた。黒い帽子、黒い仮面(しかも念の入ったことに、顔面側と後頭部側の両面のマスク!)、黒い衣装、黒いマント。まさに黒ずくめの亡霊。
  アマデウスは、この黒衣の来訪者の催眠術にかかったように、金貨の袋を受け取り、作曲依頼を受けてしまった。

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