原題は Aamadeus で、ラテン語。意味は「神の愛(を受けた者)」「神の恩寵」。
物語はもともとはブリテンの有名な舞台劇の戯曲。原作は Peter Shaffer, Amadeus ( the stage
play ), 1979 (ピーター・シェイファー作、舞台演劇の戯曲『アマデウス』)だが、この戯曲にはさらに翻案原典がある。
それは、Aleksandr Pushkin, Mozart and Salieri, 1831 (アレクサンドル・プーシキン、『モーツァルトとサリエーリ』)。
ともに、「人間の才能とそれに対する嫉妬」をめぐる寓意を込めたフィクションで、実際の人物像とは相当にかけ離れているようだ。
だから、この物語によってモーツァルトとサリエーリの人物を思い描くのは、本人たちにとってものすごく迷惑だろう。
映画では初老のサリエーリが青年のモーツァルトに出会うことになっているが、実際にはこの2人の年齢は6年しか違わない――サリエーリが1750年、モーツァルトが1756年生まれ。
平均寿命が短い18世紀末だったが、ほとんど同世代ともいえる。だから、大成し名誉をかちえた老大家が若者の天才に嫉妬するという設定は成り立たない。
とはいえ、この2人の作品や曲想は、バロックとヴィーン古典派という2つの時代の曖昧な境界線で隔てられているともいえるかもしれない。
それにしても、この作品に限らず、映画作品では天才音楽家たちはみな近寄りがたい変人・奇人として描かれているが、それは映画監督たちのプロトコルなのだろうか。
18世紀の終わり頃。
オーストリア=ハンガリー帝国ハプスブルク家の宮廷楽寮長という名誉と権威を手にしているアントーニオ・サリエーリ。
彼はウィーンの宮廷で、奇矯な若者で作曲家のモーツァルトに出会った。そして「神の寵愛」を受けたかのような彼の音楽の天才に執拗な嫉妬を抱く。そして、その音楽に狂おしいほどの憧れをも。
実際の歴史ではおよそありえないような状況設定で描かれた、ある種の「寓話」である。
しかし、この物語を巷間の噂から最初に想いついたプーシキン、それに触発されて戯曲を創作したシェイファー、そしてこの2つを素材に映像化したソール・ゼインツ監督。彼らは、何を寓意して物語を紡いだのか。
戯曲家シェイファーは、題名を「アマデウス」としたことから考えると、モーツァルトの「天賦の才」が物語と寓意の中心にあることは間違いない――その意味については、のちほど述べる。
ここで物語の背後にある寓意を考えると、この作品が取り上げているテーマとしては《芸術作品と人格》《芸術家の嫉妬(地位ある大家が新進気鋭の天才に抱く嫉妬)》《父親へのコンプレックス》が思い当たる。
ここでは、映画の物語について、実際はこうであろうという姿とを比較しながら検討してみる。
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