センベが奴隷狩りに遭った頃には、北アメリカやカリブ海方面へのアフリカ人奴隷の船舶輸送は、制海権を握るブリテン海軍艦隊の脅威によって、安全な主要航路では大半が封じ込められていた。
だが、こうして主な供給経路が断たれて、アフリカ人奴隷の希少価値が高まると、奴隷は極めて高額で取引されるようになり、奴隷貿易と奴隷取引の利潤率は逆に大きく高まった。つまりは、密貿易の横行である。
エスパーニャは、公式上、「新規奴隷の供給としての」奴隷貿易は法で禁止していた。だが、すでに奴隷身分になっている者たちや彼らの子孫を奴隷として売買するのは、大目に見ていた。
というのも、正規の大西洋貿易ルートは、あらかたブリテンの艦隊によって制圧されていて、まとも貿易では利潤は上がらなかったからだ。そして、海外植民地の権益や貿易拠点は、ブリテンやアメリカ、フランスなどによって奪い取られ、蚕蝕されていたからだ。
1939年、センベたちが集められたのは、アフリカ大陸の西端、シエラレオーネ(ライオンの山)の断崖にそそり立つロンボコ城塞だった。そこは、武装したポルトゥガル商人が立てこもる、大規模な奴隷密貿易の最後の拠点だった。そこに行く着くまでに、奴隷にされたアフリカ人のうち2割前後が病気や暴力=虐待などで命を失っていた。
この作品では、ポルトゥガル人は威嚇のための「見せしめ」として、あるいは「その時の気分」で、アフリカ人たちを鞭打ち、銃撃している場面が描かれる。
アフリカ人たちは、シエラレオーネから外洋航海用の大型帆船に積み込まれた。素っ裸にされ、手足を鎖枷でつながれ、家畜よりもひどい扱いで、暗い船倉に押し込まれた。食事は1日1回。穀物粉を水で溶いただけの「餌」だった。長い航海では、ヴィタミン(果物や野菜やその汁など)を摂取しないと、壊血病をはじめとする重病にかかる危険性が大きい。しかも、鎖につながれたまま、身動きできないように押し込められているのだ。
むしろ、無事にアメリカに着く方が少ない。最低限の健康を保って生き延びた人びとは、強い遺伝形質、頑健な肉体と精神の持ち主だった。
センベたちは、エスパーニャ領植民地クーバ(キューバ)のハバナ港に陸揚げされた。そこで、ヤシ油ワックスで身体を磨かれて奴隷市場に「出品」された。欲望で血走った顔の男たちが、競り値をつけていく。それを遠巻きに、着飾った貴婦人やその夫たちが見つめている。憐憫のかけらもない。彼らの心性には、アフリカ人が同じ人間だという意識も知識もない。
この奴隷市場で、ポルトゥガル商船テコーラ(船長=奴隷商人)は100人以上のアフリカ人たちを奴隷として仕入れた。テコーラという船舶は、これまた商人として出資した(持分保有者である)乗組員によって組織された、いわば「合資会社」である。
彼らは、ラテンアメリカやカリブ海域で奴隷売買を仲介する大手ブロウカー(仲買人)だった。それゆえ、センベたちは、やがて、さらにアミスタードに転売されることになった。
さて、テコーラに「荷積み」されたアフリカ人の苦悩と苦痛は、だがそのとき始まったばかりだった。その悲惨な運命は、裁判の進行に沿って明らかになっていく。