セイヤーが勤務することになったベインブリッジ病院は、精神・神経障害の患者専門の医療機関だった。勤務の1日目に、彼は神経科病棟のなかを案内してもらった。
入院している多くの患者は、脳炎などの症状の結果として、中枢神経の信号や脳の意思を身体の筋肉に伝達する経路・仕組みが麻痺ないし破壊されて、手足や首、腰、口や舌などを動かすことができなくなってしまった人びとだった。当時は、こうした麻痺や昏睡が神経伝達物質(ドーパミンなど)の投与によって症状の改善治療ができるようになるという知見が見出されていなかった。
小刻みな身体の震えが止まらない者、一定の姿勢に凍りついたように固まってしまった者、昏睡したように静止した者などが病棟にあふれていた。
とりわけ、1920年代に嗜眠性脳炎( encephalitis lethargica )に罹患しために、その後身体の麻痺に陥った患者が大半だった。そのほか、症状が進んだパーキンスン病の患者がいた。
ところが、嗜眠性脳炎による麻痺症状の患者は、ある特定の刺激に対してだけは俊敏な反応をすることがあった。たとえば、テニスボールが飛んでくると、瞬間に反応して手でボールを捕らえることができたり、ある音楽=曲が聞こえると覚醒したりとか。だが、そのほかの刺激には何も反応しなかった。
ということは、彼らは感覚神経は普通に(いや普通以上に敏感に)反応・知覚作用をおこなっているわけだ。だが、その知覚や反応を身体の筋肉に伝達することができない。だが、ある1つの特定の反応についてだけは、神経経路が機能するのだ。
たとえば最近入院してきた患者のルーシー。姉が死んだために、介護者がいなくなって医療保険制度によって入院患者となった。診断書には「痴呆(認知)症」と書かれていた。だが、特定の視覚情報には身体機能は反応する。自分の顔から落下する眼鏡を手でつかむことができる。だが、落下物を捕えるところまでの視覚情報=刺激についてだけしか反応できない。
特定の刺激に対してだけ反応するようだ。ある者は飛んでくるテニスボールも俊敏に手をのばして捕えることができる。だが、捕らえたとたんに刺激は終了し、筋肉への情報は遮断される。すべての運動が止まる。身体はそのまま凍りついたように硬直化してしまう。
そのほか、床の白黒のチェッカー模様の視覚情報を追いながら歩くことができる患者もいる。しかし、チェッカー模様が途切れたところで、身体は凍りついてしまう。
突発的な視覚情報への脳・神経系の反応のさいに特殊な化学物質が情報伝達物質として分泌されるのだが、その物質はその瞬間に生成し消滅してしまうらしい。
セイヤー博士は、普通の人びととの接触・コミュニケイションはすこぶる苦手だが、こういう患者たちの症状の特徴や因果関係を観察し読み取ることについては、飛び抜けた能力を発揮する。この点での洞察力やコミュニケイション能力は、ずばぬけているのだ。
社会的な意思疎通をする相手としてではなく、観察・研究対象としてなら飛び抜けて卓越した付き合い方ができるようだ。
彼は、こういう――ボールやメガネなどの動きや外界の視覚情報――視覚情報をもたらす物体の運動が、患者たちに一瞬の意思を呼び起こして、身体(筋肉)の運動を呼び起こす刺激となっていることを見抜いた。
このことを同僚の医師たちに伝えたが、説明の意味を理解してもらえなかった。