ところが、人は自分の進む道を自分の意思だけで決めるわけではない。周囲の状況によって選択を迫られるのだ。意思は人を迷わせ、事実=状況は人の運命を定めるということか。
ある日、寺に戻った瑞円は玄関で倒れ込んでしまった。病院に運び込まれて検査を受けると、末期の膵臓癌だった。瑞円は自分の人生の終末を病院のベッドに伏せながら迎えることになった。
進は、自分の一番の理解者であった祖父の恩に報いようとしたのだろうか、それとも、瑞円の遷化を自らの生き方と運命を決める事態と覚悟したのか。剃髪して僧侶になる決心をした。
そして町役場に氏名変更の手続きに行った。
戸籍の記載事項の変更である氏名変更は、めったに認められないものらしいが、僧侶となるのはそういう例外のひとつだという。進は僧名を光円とした。それは祖父が進の誕生時に考えたものだった。
その直後に病院に祖父を見舞い、やそほそった祖父の手を握りながら、跡継ぎとして栄福治の住職となると告げ、剃り上げた自分の頭をその手で撫でさせた。
瑞円は心穏やかに旅立った。
檀家会は幟をつくりや棺を飾りで覆って盛大な野辺送りの儀式をおこなった。寺の近隣の山村を下る道を野辺送りの長い葬列が続いた。
葬列の幟は4本で、「諸行無常」「是生滅法」「生滅滅已」「寂滅為楽」と筆書きされている。意味はたぶん、「この世界は絶えず変化遷移している」「生まれて死ぬのは宇宙の法則だ」「人生を終えたことによってこのサイクルの1つの環が完結した」「死滅によって真の安楽の次元に達した」ということではなかろうか。そして、参列者たちは死を悲しむというよりも、大往生を喜んでいたように見える。
そのあとには、多くの寺院の住職やら真言宗など、業界としての葬儀と進の代襲の儀式が厳粛におこなわれた。
寺の跡継ぎとなった光円は、真言宗に属す寺の住職になった。それはまた、四国巡礼札所の寺である。また近隣地区の寺院・僧侶との付き合いも世界に属すことでもあった。
寺院は聖界の機関だが、俗世の業界団体を構成する経営組織でもある。その業界の動向を学びながら、仏教施設として、また地区の信徒・檀家団の心のよりどころとして、栄福治をどのように運営していくべきか悩み続けることになった。
そのとっかかりは、寺の見栄えを飾るディスプレイであった。そこにまず自分らしさを表現しようというのだ。
まだ若い住職は迷いも多く心が定まらなかったから、「まず形から」入ろうとしたのかもしれない。
光円はさっそく、お寺業界向けのカタログを広げて、自分らしいお寺の運営にふさわしいディスプレイを求めようとした。
その結果、坊さん用品の営業マンに勧められるままに――「MVPは何度も取ることができるが、新人王を取れるのは一度だけです」という営業トークに乗せられた――、40万円もする数珠を買ったり、寺の玄関に熊の彫像などが立ったりすることになった。
業界としての仏教界と寺院もまた、どっぷり現代資本主義システムの網の目のなかに取り込まれているのだ。