さてその日、グリムリー・コリアリーの練習場では、軽い練習のあとでカンパ用の入れ物(帽子)が回されました。退団の相談をしていたあの2人にも順番が回りました。いよいよ退団の意思を表明しようとしていたところに、あの若い女性が入ってきました。
「あの、フリューゲルの練習をさせてほしいのですが。下宿屋の夫人からここを勧められたのです」と切り出しました。
バンドのメンバーは全員、「論外!」という顔つき。
ダニーが女性に返答しました。
「ここは、部外者(町の関係者以外)は使うことができないんだよ。悪いね」
女性は食い下がりました。
「私はこの町の出身者よ。名前はグロリア・・・、グロリア・モリンズ」
モリンズという名前を聞いた途端、全員が驚きました。
「というと、君はあのアーサーの」とダニーが問いかけます。
「孫です」
「そうか! アーサーの孫なのか。私はダニーだ。よろしく」
「えっ、ダニーというと、あの……!?」
「アーサーから聞いていたのか、私のことを。それで、もうとっくに死んだと思ったのかい。
まあ、いい。席に座ってくれよ。アーサーは優秀なメンバーだった。だが、肺疾患で79年に亡くなったんだ」
アーサーはこのバンドのすこぶる優秀な演奏者だったのです。そして、熱心で戦闘的な組合員でした。メンバー全員の脳裏に、アーサーがフリューゲルホルンを演奏していた頃の「栄光の時代」が蘇りました。
グロリアが中央付近の椅子に座りました。
すると、ダニーが思い出したように、
「ああそうだ、カンパはどこまで回った。どうなったんだい?
君は何を言おうとしたんだい?」と例の2人の片割れに質問。
カンパ帽子があの2人のところに回っていました。
「ああ、いや……状況は厳しいが、カンパも楽団を続けるよ。何しろ結束が大事だからな」ひとりはそう言って5ポンド札を帽子に入れました。それを見て、もう片割れが「おい、5ポンド貸してくれよ。持ち合わせがないんだ。何しろ結束が大事だからな」
というわけで、2人はバンドを続ける決意をしました。
グロリアが美女だったせいなのか、それとも彼女の闖入が「栄光の時代」を思い出させ、いっときではあれ、希望や尊厳を回復させてくれたせいでしょうか。
グロリアはバッグのなかから銀色のフリューゲルを取り出しました。それを見てダニーが目を見張りました。
「それはアーサーの楽器じゃないか」
「そう、祖父が遺言で私に残してくれたの。私が演奏するだろうって見越していたようね」
ダニーは、感動の面持ちでグローリアに語りかけました。「それを吹いてくれないか。で、どんな曲でいくんだい?」
「まあ、未熟な素人芸だけど……それでは、ロドリーゴ作曲の『アランフェス協奏曲』を」
ダニーは指揮棒を握って指揮台に立ちました。
「みんな『アランフェス協奏曲』だ、いいな」
バンドの演奏が始まりました。
「アランフェス協奏曲 Concierto de Aranjuez 」はホアキン・ロドリ−ゴが作曲したギター協奏曲。哀愁を帯びた「第2楽章 アダージォ(ロ短調)」がことに有名です。
協奏曲の第2楽章、イングリッシュホルンが冒頭を飾ります。やがて、ソロ部分(本来はギター)をグロリアが演奏します。情感を込めた、そして繊細なヴィブラートをきかせた見事な演奏でした。全員が驚き感動しました。ダニーは感に堪えないという表情。
グロリアのソロによる協奏曲を背景音にして、カットバック手法で映像が挿入されます。炭鉱会社の経営側と組合側とのタフな交渉・論争場面です。
ロドリーゴの『アランフェス協奏曲』は哀愁・哀切に満ちた美しい曲です。
バスク地方の南端にあるというアランフェスは美しい景観のなかに、衰滅した栄光の遺構や過去の戦いの痕跡を残しているとか。かつて7〜8世紀には、イベリアの西ゴート族の諸侯国は互いに敵対し合って退廃したところに、北アフリカから侵入したイスラム勢力によって滅ぼされ征服されてしまいました。その5世紀後には、キリスト教諸侯によるレコンキスタによってあまたのイスラム諸侯国が滅ぼされました。
文明の衝突が起き戦乱に明け暮れたイベリアの広大な大地と美しい風景を見つめながら、ロドリーゴはエスパーニャの平和を祈ってこの協奏曲を書いたということです。
戦いの虚しさと平和への祈り。廃墟で過去の栄光を偲ぶ。その曲を背景に、資本対労組の敵対と対決場面が描かれるのです。なぜ人は互いに敵対し闘い合うのかを問うように。この映画のなかで最も秀逸な場面です。