今回取り上げた作品は2つともに、犯罪捜査を認識論の問題と結びつけている。つまり、人間は客観的真理を正しく認識できるか、どのようにして正しいと判断できるのか、判断や推論の方法はどうあるべきか、というような問題と結びつけて犯罪捜査のあり方は(どこまで)正しいか、その正しさは何によって検証され担保されるのか、という論点を問いかけている。
何やらずい分大げさな論点を掲げて犯罪捜査を描いたものだ、もって回って格好をつけて観衆を引きつけようとしている姿勢が「あざとい」と感じる人も多かろう。
だが、コナン・ドイルやエドガー・アラン・ポーによって犯罪小説・推理小説が創出されて以来、犯罪を追跡するフィクションの面白さは、証拠や状況の分析と推論にあるともいえ、それがこのジャンルを発展させてきた。
そこにやがて、社会状況や社会問題を織り込む方法が組み込まれてきた。
言い方を変えると、犯罪捜査・推理という要素をそれ自体を楽しむことを目的とする物語から、歴史的状況や社会状況の断面を描きくための手法として取り込んだ物語へと発展したということになる。
そうではあるにしても、探偵の知的冒険とか謎解きの面白さを――主要な要素として――織り込んだ物語であることには変わりがない。
映像物語の脚本や演出もまた、謎解きの面白さを観客に発見・意識してもらうことが、ライトモティーフの1つになっていると言い切ってもいいだろう。
してみれば、分析と推論の正しさを検証する――あるいは事件の経緯や因果関係をより広く、より深く知る――ことが、犯罪=捜査物語の核心にあるということになるから、たしかに論理学や認識論の論題と結びついているということになる。
さて、ここで取り上げた2作品は、人間の認識また諸科学のうち数学の世界の推論と認識方法に的を絞っている。
『オックスフォード連続殺人』では、ヴィトゲンシュタインの論理哲学の命題が冒頭で提示され、主人公は数学者のマーティンとセルダム教授である。
そして『カオス』では、ローレンツの数学的確率論から見たカオス理論の命題が提示される。
ところで、ヴィトゲンシュタインの論理哲学論やハイゼンベルクの不確定性理論、また物理学における量子論、素粒子論などの出現このかた、人間の真理認識の能力あるいは可能性についての考えは、総じて冷めたものになってきている。近代啓蒙主義やロマン主義、ドイツのイデアリスムス哲学が掲げた「人間による客観的真理の認識」への信仰や確信は、大きく揺さぶられ、相対主義的認識論が優位に立つようになっている。
というよりも、人間は以前よりも賢くなり慎重になったので、自らの認識能力を突き放して客観的に見つめるようになっているということだろう。
仮に人間が世界の法則や内的連関をより「正しく」認識できるようになっていくとしても、人間の知性は多くの試行錯誤や実験、検証を経験した後で「後知恵」的により包括的な認識に到達するだけこのことであるから、常に先んじて変化していく世界を後追いしながら、あちらでつまづき、こちらで批判されて、かなり後になって世界を把握できるようになるということにすぎない。
人間の認識はつねに現実や客観的世界の変化に立ち遅れていて、いわば「時代遅れ」になっているということだ。
だから、もし、科学認識の正しさについて、その認識によって「そのあとに起きるはずの現象を予測できる」ことが正しさの基準だとすれば、人類は永遠に世界の真理を認識することはできないということになる。ヘーゲルが言うとおり、人は物事を nachdenken するしかないのだ。
そんなことを思いめぐらす機会を提供する――かなり知的な娯楽になる――映画作品もあっていい。