以上に見たエイリアンと地球人との遭遇と交流・争い描いた物語は、これまでのエイリアンもの映画とは次元を異にしている。新しいエイリアン映画のスタイルを提起したといえるだろう。
この物語に登場したエイリアンたちは、たしかに銀河間の宇宙旅行ができるほどに高度な科学技術・文明を備えてはいるが、その生存スタイルは、いわば人類と等身大ともいえるものだ。
地球の人類と同じように社会を形成し、そのなかではエリートと庶民と階級格差が歴然と存在している。そして庶民、すなわち下層民衆は、商品経済によって自らの欲望を操作され、酒や好物を手に入れるため四苦八苦し、日常生活の憂さを飲んだくれることで紛らしている。
この映画の制作陣は、エイリアン像に地球人類と同じような社会慣習や行動スタイルを投影しているわけだ。というよりも、地球人類のトホホな姿、貧富の格差や尊厳の剥奪状態、利潤のためには戦争や人体実験をも辞さない企業活動などなどを風刺しながら批判的に描くために、エイリアンを登場させたのではなかろうか。
ところが、このような物語とエイリアンの存在様式の設定方法は、じつはエイリアンもの映画の制作手法の本質をわかりやすい形で示しているように思う。
つまり、映画が描くエイリアン像は、制作陣が批判の対象としたり、憧憬化=偶像化したりしようとする人類自らに関するイメイジなのだということを。
この記事の冒頭でエイリアン映画の2つの大局的なスタイルを、ややkカリカチュア化して示しておいた。すなわち一方に、『エイリアン』あるいは『プレデター』シリーズに見られるような、人類を食い尽くし、あるいは殺戮しまくる暴虐なエイリアン像。そして他方には、『ET』のように、人類よりもはるかに高度な知性と理性(平和の愛好)を備えている、いわば人類にとって理想のような存在がある。
これらのエイリアンのイメイジは映画作者としての原作者や脚本家などが抱いているイメイジにほかならない。それはまた、彼らが育ち教育を受け、情報を受けてきた社会が抱くイメイジであって、彼らはそのなかから意識的にか無意識的にかどれかを選択し、あるいはいくつかを合成して、エイリアンのイメイジを作り上げたわけだ。
映像物語に登場するキャラクターとしてのエイリアンは、劇中で言動・行動をする存在である限り、その社会が自分たち人類について――ほかの生物種の生態や行態を加味したりして――描いているイメイジなのだ。
たとえば『エイリアン』で登場する、あの吸血蚊のような口吻部を備えている宇宙生物は、チョウやガの幼虫に産卵するハチの仲間のように、人類の身体内に産卵する。孵化した幼体は、人の身体細胞や器官を内側から食い尽くして成長していく。そして、成体になる前に事態の皮膚を食い破って外に出現する。
そのプロセスは、ある種のハチの孵化化から幼体の成長とそっくりだ。だから、身体内に産卵されたチョウやガの幼虫・イモムシを観察していると、あるとき突然イモムシの身体が破裂して、ハチの成虫が出現する場面に出くわすこともある。ハチの生体が抜けだた後には、ほとんど表皮だけであらかた内部を食い尽くされた、イモムシの抜け殻だけが残されている。ときには、数頭のハチが出てくるときもある。
エイリアンの物語作者は、おそらく、そういう昆虫世界の生存等闘争を参考にしたに違いない。
だがしかし、このエイリアンの恐ろしいほどの攻撃性は見境がなく、ちゃんと対象を選んで寄生産卵するハチとは異なっている。あれは、人類の欲望や征服欲、攻撃性を写し取った姿だ。
また『プレデター』のふたすらアグレッシヴなエイリアンの、狩猟行動は、人類のなかにある病的な攻撃欲求・名誉欲求に近いものがある。食料を得て生き延びるためではなく、狩猟の成功を誇りたがる性向によってひたすら人類を殺戮するのだ。これも人類のある種の行動を反映したものだ。
それとは反対に『ET』では、おそらく「人類もかくありたい」という願望が映し出されているように思う。
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