同じ時期に、アイアランドの繊維業の衰退があった。
イングランドのランカシャー地方を中心に撚糸や織布工程が機械化された工場群が成長し、安価な大量生産の綿繊維品ならびに羊毛混織品がアイアランドにも輸出され、都市の小工房や農村副業の繊維業を圧迫し、手作業でおこなわれていた労働者の仕事を奪ったのだ。
織物産業の雇用者数は、1841年には70万近くいたが、82年には13万足らずになっていたという。
他方でアイアランドの農民層の抵抗と闘争は続発した。
1879年には「土地同盟」が結成された。
この組織は、地主層による小作農民追い立てから農民を守る運動として始まったが、まもなく「不当な地代」に反対し「農民の自由な耕作と販売の権利」を擁護する国民的規模の運動に発展していった。やがて、この農民運動は、自治権獲得をめざすアイアランド自治党と政治的に連携するようになった。
土地同盟は、大所領、とりわけ不在地主の土地を占拠し奪い取って農民に分配するための闘争、そのための共同ボイコット闘争を展開していった――この闘争は「土地戦争」と呼ばれる。
これに対して、ブリテン王権政府の首班グラッドストーンは、土地同盟のメンバーや支持者を裁判を経ないで拘束できる法律を制定して、運動の指導者と参加者を弾圧した。
同時に、アイアランド土地法によって、農民層との妥協・懐柔をはかった。
この法律は、土地裁判所を設立して、土地紛争や農民闘争を「平和的に解決する」ための制度を準備した。なかでも、地代を15年間固定してそのあいだ農民の追い立てを禁止する手続きは、小作人から歓迎された。そして、不在地主の土地を――地主には高利回りのイングランド国債の付与と引き換えに――裁判所に預託し、耕作農民には毎年の割賦金の支払いによって土地所有権を分与する仕組みを創出した。
これによって、土地同盟の闘争は衰退していった。
というのは、この制度は、少数の比較的富裕な小規模自衛農民・借地農に土地保有のチャンスを与え、彼らを農民闘争から離脱させたからだ。彼らこそ、長期的展望=広い視野に立って闘争を指導していた、運動の中核=頭脳だったからだ。こうして農民層の結集性・持続性は弱められ、衰退した。
そうなると、一過的な激情に駆られた暴力が散発することになる。それは、イングランド当局による弾圧の口実となった。組織性や継続性を失った散発的で粗暴な運動は、容易に弾圧され封じ込められていった。
一方、自治権のための運動は持続した。
前に見たが、ウェストミンスター議会(庶民院)にアイアランド富裕層の代表が送られるようになったことから、議会をつうじてアイアランド地方の自治( Home Rule )の要求がブリテンの中央政界で表明されるようになった。
イングランド政府としてはアイアランドで相次ぐ反乱や蜂起にほとほと手を焼いていたから、アイアランド支配を継続するためにも、一定の自治権を与える妥協策を検討していた。
その結果が、1898年のアイアランド地方政府法( Local Government Law )だった。
それは、〈アイアランド人による自己統治〉という要求から見れば、かなりの限界・制約を持っていはいたが、これまでのイングランド人地主貴族の横暴専横がまかり通る、あまりに冷酷で傲岸不遜な政治からの脱却を意味した。
地方政府法は、それまで大地主貴族から構成されていた大陪審院を解体して、アイアランド統治権限を地方州政庁=評議会――イングランドでは地方自治体を「カウンスル」と呼ぶ。それは、議会と政庁の総称――に移管するものとした。
アイアランド島のほとんどの地方は、カトリック系アイアランド人からなり、アイリッシュ民族派、すなわちブリテン=イングランドからの独立を志向する陣営に属していた。
ところが、北西部のアルスター地方では、アングリカン教会に属すプロテスタントが政治的・経済的に有力で、政治的傾向――政治的多数派意見――としてはブリテン連合王国UKへの編合の持続つまりブリテンへの帰属を求めていた。
このような動きのなかで、アイアランドは20世紀を迎えることになった。
こうして、この映画作品の物語の舞台は用意された。
以上の過程を見れば、この映画でマイケル・コリンズやイーモン・デヴァレラたちが、なぜあれほど執拗にアイアランド独立ないし自治権獲得を求め闘争を続けたか、そしてときには冷酷な暗殺や暴動さえいとわなかったという理由が理解できるだろう。