釈放されたベンは、すぐにデルプの研究室を訪れた。今度は、あの小さな金属片=チップを手にしていた。それは、ベンがレイモンドの背中に噛み付いて、皮膚の下から抜き取ったものだった。奥歯の隙間に隠していたのだ。
デルプはそのチップを電子顕微鏡(コンピュータ)で解析した。内部の仕組みを見たデルプは驚愕した。
チップは、最先端のサイバネティクスとバイオ=ナノテクノロジーの融合で、人間の脳と中枢神経の活動を完全にコントロールする装置だった。超小型の電子回路と人工ニューロンとが重合した仕組みで、遺伝子プログラムに介入して脳と中枢神経の活動(情報信号のやり取り)を媒介する電気信号や酵素の作用をコントロールし、それによって記憶や感情、行動意思を思いのままに操るメカニズムだった。
それを開発したのは、マンチュリアン・コーポレイション。
この企業は、ペンタゴンによる軍需物資調達の契約において大きなシェアを占める多国籍コングロマリットだ。アメリカの軍産複合体の一角を占める巨大寡占企業の1つだ。巨大な額にのぼる医薬品や医療危機、電子機器などの配備品を軍に納入している。そして、ベンたちの身体に埋め込まれたチップは、秘密裏に、マンチュリアンが軍の研究開発部門と連携して開発した装置だった。
ペンタゴンの作戦司令部の一部が、これを中東の前線に派遣される兵士たちの身体に埋め込んで人体実験を試みたのだ。だが、マンチュリアンは本当の使用目的を偽っていた。しかも、政治エリート家系のレイモンドをチップで操って、自社の軍産複合体での地位をさらに支配的・圧倒的なものにしようと企んだようだ。
マンチュリアンは、アメリカ軍の発注契約におけるシェアを拡大し始めた頃、他方で政界の有力家系、プレンティス一族との関係を強めていった。プレンティス家の政治家を政界でのロビイストに仕立て上げていったのだ。
おりしもそのとき、レイモンドの母親の父親、つまりレイモンドの祖父は、元老院で絶大な影響力を保持して、次期大統領の地位をめざしていた。マンチュリアンは、ペンタゴンの軍需契約にさらに深く大きく食い込むために、早くから、議員を支援していた。議員もマンチュリアンの役員会に名を連ね、巨額の株式を保有していた。
両者は結託して、政界と財界、そして政府発注契約での影響力を拡大してきた。
しかし、エレノアの父親は党内の権力闘争で失敗して、ついに大統領候補になることができなかった。父親は、その未練と妄執を愛娘に注ぎ込んで、政界での自分の後継者に育て上げ、政界の有力者の地位に据えた。
エレノアは、かくして、政治謀略の天才となった。そして、党内の別の最有力の名門、ショー一族の御曹司である元老院議員と結婚して、レイモンドを生んだ。そのときから、自分の家系の一員、つまりは息子を連邦政府の中枢=頂点に押し上げる戦略を繰り広げてきた。
ところで、《自らあるいは自らの家門が権力の頂点を極めようとする野望》を突き放して社会学的ないし社会史的に分析すると、どういう位置づけ、内容になるのだろうか。ここでは、とくに自分の息子の精神を洗脳・改造してまでも大統領府に送り込もうとするエレノアの野望について、私は大いに訝っている。
どういうことかというと、エレノアは我意そのものを押し通そうとしているというよりも、マンチュリアンの利害に沿った政権レジームを構築するために、自分の息子を道具化している、つまり特定の企業の利害に追従して自分と家門をその利害にへつらうものにしようとしているように見える。つまり、自ら精神の奴隷化を望んでいるかに見える。
このような支配者や支配者をめざす権力志向について、今から5世紀も前にマキャヴェッリは著書『君主というもの』で鋭く批判的に喝破している。
彼らが権力の階梯を上り詰めようとしたり、あるいは現在保持している権力を維持しようとして、人脈やら支持基盤などの要望に忖度し、権力システムの要請に応じた行動スタイルを取り続けているうちに、君主たちはシステムに操られる傀儡になってしまう。
彼が以前、やがて支配者となったときにこう変革しようと企図していた意図は失われ、結局、変革を忘れ、レジームそれ自体の存続のためにひたすらはたらく操り人形になってしまう、と。支持基盤を固めて権力闘争で生き残り、勝ち抜くためにあくせくしているうちに、本来の政治的目的を忘れてしまうというわけだ。
してみれば、権力者は、権力の頂点にのぼっていく道を歩むうちに必然的に「権力システムの虜」になってしまうということか。