しばらくして、マーティンはロンドンにいた。
彼は、IRA崩れの小悪党を頼った。その男は名目上IRAに属してはいるが、食いつなぐために土地の顔役に服属していた。マーティンはアメリカに移住しようと考え、その小悪党に現金5万ポンドと偽のパスポートを用意するように依頼した。
ところが、地元のギャングのボスからの指示で、小悪党はマーティンに、現金とパスポートとの引き換えに暗殺の仕事を求めた。だが、マーティンは拒否した。
「俺はもう殺しはやめたんだ」
だが、男は食い下がった。
「あと1人だけだ。そいつは極めつけの悪なんだ。頼むよ。そうすれば、現金とパスポートを渡す」
このときは結局、マーティンは殺しの依頼を断った。
二人が話し合っていた場所は、海への運河でもあるテムズから引き込んだ水路に沿った古い倉庫群のなかの建物だった。マーティンは小悪党に別れを告げると、倉庫を出ていった。
ところで、パクスブリタニカのもとで20世紀はじめまで世界経済のヘゲモニーセンターであったロンドン(シティを中心とする都市圏)は、世界中から移民を引き寄せた。世界中から集まった多くの人種が混淆する都市で、現在のニューヨークの先駆でもあった。
ロンドンの地区ごとに、たとえばネーデルラント系住民の街区、北西ドイツ系住民の街区、イタリア系住民の街区などがあった。
マーティン・ファロンが逃げ込んだ場所は、ウォーターフロントの倉庫が林立するイーストロンドンのカトリック系アイアランド系住民が肩寄せ合って暮らす街区だ。そこには、したがってIRAと多かれ少なかれ結びつきがある人びとも交じっていた。
アイアランドではIRAの闘士だったが食い詰めてロンドンに流れ込んだ連中もうろうろしていた。長年の闘争に倦み戦列を離脱したり、あるいは家族が直面する厳しい経済的現実に迫られて、世界都市ロンドンで一稼ぎしようとしたりして、いまはロンドンに暮らしているのだ。
というわけで、イーストロンドンのアイアランド系住民街区には、IRAのシンパが数多くいて、その連絡経路の末端が延びていた。それゆえまた、ブリテン治安警察にも目をつけられている場所だった。
1970年代にはアイアランドは概して貧しい辺境だったから、地元での雇用からあぶれた人びとの多くが、仕事やビズネスチャンスを求めてロンドンにやって来ていた。
今日、アフロ系やラティーノ系あるいはアラブ系が欧米諸都市に出稼ぎにやって来て、社会の底辺の低賃金労働に甘んじて故郷に仕送りしながら、成功の夢を追う姿が見られる。それと同じような光景が、70年代にもロンドンのそこかしこに見られた。
マーティンは、アイアランドからの出稼ぎ労働者たちが宿泊する安宿(1部屋にいくつもの2段ベッドがあって、4人とか6人とかがいっしょに寝泊まりしている)に居続けていた。
その街は、イタリア系住民の街区と隣接あるいは入り混じっているらしい。
同じローマカトリックのよしみか。
というのも、イングランドでは宗教改革の結果、王がアングリカン教会(プロテスタント派)の首長であることから、政治と宗教は密接に絡み合っていて、以前は、王権政府は秩序維持の観点から、「異端者」であるカトリック教徒を都市の「ゲットー」に集住させて監視統制――政治・経済活動の要路から排除――していたこともあったからだ。
民主主義の母国でも、差別と抑圧ないしは排除の仕組みは、近代国家制度の付随現象として根強く残っていたのだ。