アフリカの地図をご覧あれ。
経線や緯線に沿って直線的に引かれた(あるいは斜めの直線で引かれた)国境線が縦横に走っている。
ヨーロッパ諸国の軍事的・政治的・経済的な分割闘争、分捕り合戦によって、そのときどきの力関係に応じて、いわば域内の地理的環境とか部族の生活圏とか、内発的な理由でではなく、外在的な原因によって暴力的・人為的に確定された国境線であることは、一目瞭然だ!。
つまりは、ヨーロッパ諸国家の闘争の結果決められた境界線に沿って、あれこれの部族や語族、集団が無理やりそれぞれの属領・植民地圏に寄せ集められ、囲い込まれたのだ。
ヨーロッパでは、近代的国民(nation)が数世紀(およそ5世紀)におよぶ長い歴史的過程をつうじて形成された。戦争や闘争、駆け引きの結果として。国民とは、国家によって組織され統合され、やがて軍事的・政治的・文化的なまとまり=一体性(幻想の?)を獲得した集団単位で、近代に固有の特殊な社会制度だ。
だが、アフリカには、そんな歴史的時間は与えられなかった。先ほど述べた直線的な国境線が、この間の事情を雄弁に物語っている。
ところが、17世紀まで、アフリカ各地ではヨーロッパと比べて遜色のない豊かな原住民の生活が営まれていた。
ことにインド洋岸沿いのアフリカ東部は、遥か昔からインド洋海運によって結ばれた「世界貿易」をつうじて、アラビア、ペルシア、インド、東南アジア、モーリシャスなどの諸地方と多様な特産物交易を繰り広げていた。
インド洋は、緩やかな紐帯で結ばれたインターシステムないしインタークラスター・システムを形成していた。
アフリカの熱帯産物や金、宝石、アラブの貴金属製品や果物、インド各地の洗練された木綿繊維、東南アジアの胡椒や香辛料など(これらは当時のヨーロッパで金よりも価格が高い贅沢品だった)が、取り引きされていた。
しかし、16世紀にポルトガルの艦隊がインド洋に進出し、アラビア海やペルシア湾、インドの沿岸部を征圧し、古来からの航海や交易関係に介入し、破壊し、組み換えていった。
続いて、インド洋東部にネーデルラント連合東インド会社の艦隊と商人たちが割り込み、ポルトガルと激しい競争・闘争を展開しながら、インド洋東部のヘゲモニーを握っていった。
遅れてイングランドの東インド会社がやって来た。
ブリテンの商人と東インド会社の艦隊、陸軍は、やがてポルトガル艦隊を駆逐し、ポルトガル人を従属的な同盟相手に組み込んだ。そして、ムガール帝国の衰滅やインド各地での騒乱につけ込んで、インド亜大陸からアラビア、東アフリカで支配地域を拡大していった。
原住民たちの「豊かな」インド洋は、西欧列強のヘゲモニー争いの舞台となっていった。