第8章 中間総括と展望
この章の目次
中世ヨーロッパは変化に乏しい停滞的な社会ではなく、ダイナミックな変動に満ちていた。
それに先行する古代ローマ帝国は地中海をほぼ一回りする広大な版図を擁し、地中海はローマ人にとって「われらが海」だった。ゆえに長距離の航海交易は、西アジアや中東、中央アジアや黒海沿岸、北アフリカ、バルカンや南ヨーロッパ、西ヨーロッパを結んで活発におこなわれていた。帝国の混乱・衰退期には、ゲルマン諸族の長距離の移動と帝国領内への移住と村落建設、農地開墾などの動きがあって、その後のヨーロッパの社会変動の起点となった。ゲルマン諸族が定住し始めたヨーロッパ大陸は、そのほとんどが自然林に覆われていて、定住と農耕は各部族総がかりの森林伐採と開拓が必要だった。
中世ヨーロッパにおけるローマ教会キリスト教の《知的・道徳的ヘゲモニー》は、開拓、集落建設、農耕・栽培や建築土木、医療などに関する古典的知識・教養や技法をもつローマ教会修道僧たちが農地開拓や農村建設を献身的に援助・指導し続けたことによって確立されたという。修道僧たちは、暦法と農耕知識をもとにして、季節ごとの農作業・作物管理など(農事歴)を民衆に習得させ、ゲルマン諸族の風習を取り込みながら教会の聖祭行事や儀式を歳時記に織り込んで、住民たちの生活リズムを律する文化を構築したであろう。
してみれば、中世ヨーロッパはその出発点において、このようなダイナミックで長距離にわたる交易や移動、そして開拓、村落や道路などの建設による自然環境と社会環境の変動に直面し、これらを受け継いで始まるほかはなかった。
ローマ帝国の崩壊後は、帝国は分断され、帝国領各地や植民地・属領のあいだの連絡は大半が衰退・断絶した。長距離の遠征や移動、航海を推進する力は失われていった。そして、森林に覆われたヨーロッパ各地に定住したゲルマン諸族は、数世紀にわたって農耕地開拓や集落建設にほとんどの資源を投入するしかなかったから、剰余生産物を交易に回す「ゆとり」はなかっただろう。ここで、商品貨幣経済は衰退に向かったであろう。
やがて、たしかに商品貨幣経済の成長拡大過程としては、はじめに無数の地方市場が形成されただろう。だが、まもなくそのなかに、とてつもなく高度な資本集積を達成した特殊な都市と市場が出現した。それらは、司教座都市や領主城砦集落に隣接した商人定住集落で、生まれついたときから、規模が小さいながらも遠距離貿易を組織化していた。というのも、ヨーロッパ各地の諸都市の定期市などをめぐっていた遍歴商人たちの拠点だったからだ。むしろ、農業や集落、人口の成長にともなって商品貨幣交換がゆっくり浸透した地方市場よりも、遠距離貿易は、時期的にはずっと早く生成し遍歴商人たちの手で組織化されていた。
というのも、地中海にはローマ帝国の遺制が残存し、たとえばマッシリア(のちのマルセイユ)やゲヌア(ジェーノヴァ)、ネアポリス(ナーポリ)やアマルフィなどの港湾諸都市は、ローマ帝国時代以来、縮小しながらも中東方面との香辛料や陶磁器、絹織物などの奢侈品貿易が持続していたからだ。そして北海=バルト海方面では、ゲルマン諸族の大移動以来、スカンディナヴィアやユートランドから北ドイツ、フリースランド、ネーデルランド、イングランド、北フランスへの遠征航海や交易、植民活動が波状的に繰り返されてきたのだ。長距離の冒険航海や交易の経験や条件が準備されていた。
また、内陸部でも、帝政期にメディオラヌム(のちのミラーノ)からアルプスを越えたり回り込んだりしながら、ローヌ河沿いにブルグントや西フランスへ、あるいはドーナウ河またはライン河沿いにコロギウム(ケルン)やフリースラント、北ドイツにいたる交易路また軍用路があった。商業都市〔*1〕〔*2〕が出現・成長する土壌は用意されていたのだ。
とにかく初期的な商品経済や都市集落の出現が間をおかずに遠距離貿易ないし世界貿易に結びついた地方が、いくつかあったのだ。
地中海世界ではヴェネツィアやジェーノヴァなどの北イタリア諸都市が、すでに11世紀から、ローマ帝国の遺制や残骸の上に、あるいはビザンツの帝国レジームに寄生しながら、遠距離貿易を組織するようになっていた。
また、やや遅れて北ドイツとバルト海地方では、ライン地方の諸都市出身の商人たちが東方植民活動の拠点として、ブレーメン、リューベック、ハンブルクなどの諸都市を建設し、さらに東方に向かって、ポンメルン、スウェーデン、リトゥアニア方面に都市集落や交易路を開拓していった。内陸のケルンやフランクフルトからもエルフルト、マクデブルク、そしてエルベ河やオーデル河を越えてバルト海にいたる新たな都市集落と交通路の建設が展開された。
それらの新興諸都市の冒険商人仲間は、バルト海・北ドイツとライン地方、フランデルン、イングランドを結ぶ遠距離貿易ネットワークを組織していった。それらは、交易路から少しはずれた諸地方市場にはあまり目をくれずに、遠隔の地に交易拠点を築いていった。
この点に関して、遠距離貿易を組織化する動きの最初の出発点となった北イタリア諸都市やライン地方諸都市は、ローマ帝政期にすでに都市集落や植民・兵站の拠点として商品や経済的余剰の広域的な流通という事態を経験しているということは、注目すべきだろう。古代帝国の遺制・残骸の上に生い立った諸都市は、生まれながらにして頭抜けたポテンシャルをもっていた。
ところが、交易拠点または商品交換の経路から離れた農村地方でも、商業資本の権力の浸透による生産関係の組み換えは進展していった。領主家政と所領経営が、遠距離貿易のための商品作物生産(貨幣経済)に対応した構造に転換していったのだ。
イングランドでは13世紀から17世紀まで、領主直営または借地農経営による牧羊と都市向けの穀物生産が成長した。エスパーニャでも、同じような時期に、輸出向け羊毛のための牧羊がそのほかの土地耕作を圧迫しながら成長した。エルベ河以東でも輸出用穀物生産のための領主直営農場が成長した。
このような生産構造の組み換えには、その地方ごとの社会関係総体の変容、すなわち領主と農民との関係や農村内部の仕組み、都市と農村の関係の変容がともなっていた。つまり、各地方の再生産構造と階級構造は世界市場的連関によって制約されていたのだ。というよりも、世界市場的連関とは局地的規模を超えた広域的な階級関係というべきか。
こうして、地方市場とはまったく別の次元で、ヨーロッパ的規模で有力諸都市を線状に結ぶ交易路が出現し、諸都市を結節とする網の目状の商品流通の回路が形成され、商品貨幣経済が浸透していった。ところが、網の目や線にかからなかった諸地方はごくゆっくりと変化していった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成