第8章 中間総括と展望
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16世紀のエスパーニャは新世界アメリカ大陸に広大な植民地帝国を形成した。本国とアメリカとの貿易量は1510年から50年までのあいだに8倍になり、1550年から1610年までにさらに3倍になった。この貿易は王室独占事業で、王権から特許を受けた御用商人たちが直接取引きを担当し、貿易品目と量および課税額などについては商人団体が管理していたが、他方で、商館の設置場所、交易場所、積出港、荷揚げ港などは王権によって(課税および賦課の対象として)指定され、総体としてセビーリャの通商院によって統制されていた。
その貿易の主要な商品は貴金属地金だった。はじめのうち、エスパーニャ人植民者たちはインカ人たちが採集して祭祀用に用いていた金を強奪した。それが尽きる頃になると、ペルーの銀鉱脈から水銀アマルガム法によって銀地金を採掘精製するようになった。
他方ヨーロッパでは、オーストリア王権とエスパーニャ王権を掌握したハプスブルク家のカルロスが神聖ローマ皇帝位を獲得して、ハプスブルク王朝はヨーロッパに広大な「領地」を獲得した。カルロス(カール5世)はことにネーデルラントでは、フレンデルン伯、ホラント伯、フリースラント領主などを兼務するブルゴーニュ公として君臨することになった。だが、その支配圏域は、法的自立性を言い立てがちな多数の政治体の寄せ集めでしかなかった。とはいえ、それらはフランス王国を取り囲んでいた。ピレネー、フランデルン、ブルゴーニュ、イタリア、地中海のいたるところで、ハプスブルク王朝とフランス王権が闘争することになった。
この長期にわたる一連の抗争は、主としてまずはイタリア半島の支配をめぐって展開された。この戦争は、1557年に双方の財政が破綻するまで続いた。
だが、ヨーロッパ経済と諸王権にとって最も重要な意味をもっていたのは、いまやイタリアよりもむしろフランデルンだった。とりわけアントウェルペンは、地中海から南ドイツ、ライン地方を経てフランデルンにいたる内陸通商路とバルト海方面とを結びつける結節点、つまり低地地方の中心市場だった。
アントウェルペンはまた、イタリアからイベリア半島を周航してビスケー湾にいたり、さらに西フランス、南イングランドの港湾諸都市を経てネーデルラントにいたる航路の最終目的地でもあった。
つまりこの都市は、ヨーロッパの諸地域を世界経済に結びつける連結環の中軸だった。とりわけ、ハプスブルク王権にとっては、フランデルンはイベリアとドイツ・バルト海・中欧を結ぶ要であり、貧弱な王室財政の最後のよりどころとすべき豊かな地帯だった。
そこには商品交換の集積にともなって決済のための貨幣・貴金属が集中し、アントウェルペンは未成熟だがヨーロッパ最大の金融市場になっていた。ハプスブルク王朝はこのネーデルラントを支配していた。当時、カール5世の「帝国政策」――この政策はヨーロッパ各地での戦争を引き起こし、膨大な戦費を飲み込んでいた――のために短期信用への需要が増大した。
そこで、アントウェルペンは「帝国」の信用交換市場として機能したうえに、その都市団体自身も王権に多額の融資をした。だが、「帝国」の戦費は膨大で、通常の王室の歳入の数倍から10倍に達したから、アントウェルペンからの資金調達ではまかないきれなかった。結局、ハプスブルク王室はジェーノヴァ商人や北イタリア商人、そしてついにはフッガー商会などから融資を受けた。
だが、分立した多数の政治体の寄せ集めにすぎなかった「帝国」には、――その当時の王権としては普通のことだったが――全域にわたる効率的な徴税体制がなかった。帝国の財政基盤は貧弱で、信用度も低かった。だから、カールは償還期限の短い高利の借入れしかできなかった。数年間という期限で返済を義務づけられた借入れが、さらに王室財政を圧迫することになった。
さて、1530年以降は大西洋貿易が成長して、アントウェルペンは発展の新局面を迎えた。ドイツ・中央ヨーロッパは、北イタリアとフランデルンを結ぶ主要経路に位置したため、15世紀をつうじて、その地域の諸都市と内陸交易路の成長が著しかった。諸都市と交易路はいまや、アントウェルペンでエスパーニャの大西洋貿易路とが結びついた。ドイツでは空前のブームとなった。
ところが、16世紀のドイツ・中央ヨーロッパは混乱と争乱の時代を迎えていた。軍事的・政治的環境が混沌としていたのだ。
15世紀からドイツでは、商品経済の成長とともに有力領主・君侯層による領邦国家の形成、つまり微細な領地や諸都市を統合する動きが始まっていた。だがその領域国家は、イングランドやフランスに比べるとすこぶる小規模だった。大規模な領域国家の形成は阻まれていた。弱小な諸侯はその領主特権を維持するために、「神聖ローマ帝国」の法観念やそのごく断片的な政治装置をよりどころにして、そのときしだいの同盟や離合集散を繰り返しながら、有力君侯の権力と支配圏域の膨張を阻止することができたのだ。
このように、ただでさえ不安定な状況なところに、宗教改革=教会紛争が始まり、1525年には農民戦争が勃発した。しかもドイツでは、イングランドやフランスのような「国民的統合」の核になりうるほどの政治体はついにできなかったから、混乱は収拾のしようもなかった。皇帝位を保有するオーストリア王国は、実際のところ自立的な伯領・侯領の寄せ集めで、かろうじて体裁上のまとまりを保っていたにすぎない。
結局、中央ヨーロッパでは、宗教戦争をつうじてある程度の微小君侯は淘汰されたが、少数の有力領邦君侯と多数の弱小君侯がすくみ合ったままという軍事的・政治的分裂状況は相変わらずだった。軍事的・政治的分裂は宗教と教会組織に反映された。その状況は、1555年のアウクスブルクの宗教講和会議で確認された「領土の支配者が宗教を支配する」という原理によって固定されてしまった。
多数の分立的な領邦国家の並存状況は、貿易経路を多数の軍事的障壁・関税障壁で分断したばかりか、諸都市のブルジョワジーを――政治的に結集できなかったがゆえに――領邦君侯による財政的収奪の対象にしてしまった。戦乱や有力王権の財政破綻にともに始まった16世紀半ばの深刻な経済的危機は、このようにすでに深刻な混乱におおわれていたドイツに襲いかかることになった。
ヨーロッパ諸国家体系のなかでは、いまや軍事的・通商的対抗の強度は飛躍的に大きくなり、もはや小規模な領邦国家は軍事的・経済的に意味がないというべきか、状況の変化に自力で対応できないのは明らかだった。それゆえ弱小君侯たちは、目先の保身欲求に駆られて域外の有力君侯に依存することになり、そのためドイツの状況はさらに域外権力の介入を招きやすい構造になった。それゆえまた、多数の領邦国家からなる脆い「勢力平衡」が大きく揺れれば、争乱が全ヨーロッパを巻き込んで連鎖的に大規模化していく事態は必至だった。
ついに半世紀後には、ヨーロッパ中の諸国家を巻き込んで、破滅的な結果をもたらす長期の戦乱がやって来た。17世紀前半、ドイツ・中欧全土を三十年戦争の嵐が吹き荒れ、人口が激減して深刻な停滞と不況に陥ることになった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成