アミスタッド 目次
原題と原作について
見どころ
あらすじ
洋上の反乱
大西洋にまたがる利害紛争
大統領と奴隷制廃止論者
・・・欲の突っ張り合い
ジョン・アダムズ
法廷闘争の開始
アフリカ人の「物語」
言葉・・・
通訳係の獲得
奴隷貿易の歴史
密貿易
暴かれた奴隷貿易
合衆国内の権力闘争
ロジャーとクインシー
クインシーとセンベ
クインシーのチャレンジ
重い結末
映画が問いかけるもの
アメリカ独立革命と南北戦争

奴隷貿易の歴史

  センベは、西アフリカの森のなかの村で農業を営んでいる部族に育った。やがて愛らしい娘と結婚して男の子をもうけた。穏やかな生活を送っていた。
  数年前、この村に恐ろしいライオンがやって来て居座った。恐ろしさに竦み上がった村人を助けるために、センベはライオンを追い払うために大きな石を投げた。すると、偶然、石がライオンの頭を直撃して殺してしまった。センベは幸運の結果にすぎないと思ったが、それ以来、村人は彼を深く尊敬し慕うようになった。
  ところが、1年前のある日、平和な農村を別の部族が襲撃した。好戦的な部族で、奴隷狩りを商売にしていた。センベを含む何人かの村人が捕らえられて捕虜となり、ヨーロッパ商人に奴隷として売り払われた。

  15世紀末頃にヨーロッパ人たちがアフリカ大陸に分け入るよりも以前から、アフリカ大陸では、奴隷制度が存在した。部族どうしの戦争で捕虜になった者たちが奴隷とされた。巨額の借金を負った者が債務奴隷になることもあった。
  イスラム太守たちが北アフリカを統治する時代になると、好戦的な部族の王(族長)は、周囲の部族に戦争を仕かけて捕虜にした者を奴隷として、イスラム君侯や領主、富裕商人などに売り渡した。イスラム人たちは、奴隷を農場の労働力にしたり、家内サーヴァントにしたりした。
  だが、ヨーロッパ人がアフリカ・大西洋航路に進出してきてからの時代に比べれば、イスラムとの奴隷売買はわずかなものだった。イスラム教徒の征服や経済活動と、大航海時代以降のヨーロッパ人の経済活動や軍事的冒険とは桁がいくつも違っていた。

  イベリア半島の諸王朝(ポルトゥガル、エスパーニャ)は大西洋の彼方に冒険航海者を派遣して、アメリカ大陸を「発見」し、軍事的に征服して、広大な植民地を建設していった。このアメリカ大陸ならびにカリブ海諸島の植民地帝国の領土の開拓と生産活動のために、はじめにはインディオ(原住民)を酷使した。だが、やがて彼らが疫病などで衰滅すると、アフリカからの奴隷が利用されるようになった。
  奴隷を獲得する「調達市場」がアフリカになった。
  奴隷狩りは、ヨーロッパ人たちによっても大々的におこなわれたが、アフリカ原住部族によっても繰り広げられた。つまり、奴隷売買は、すこぶる儲けになったのだ。
  エスパーニャやポルトゥガルの商人たちは、戦争好きな部族の族長や有力者に珍奇・高価な財貨(ヨーロッパ産のガラス製品や金属製品、アジア産の宝石など)を手渡して、奴隷狩りのための戦争を促した。

  15世紀半ばから19世紀前半までに、アフリカ大陸から南北アメリカ大陸やカリブ海諸地域に奴隷として送り込まれたアフリカ人(何とか「目的地市場」に生きて到達した者)は、少なく見積もっても800万から1200万にのぼるという。そのさい、アフリカで奴隷狩りに遭った人びとのうち、「家畜以下」の劣悪な食糧や居住環境をアメリカ大陸まで生き延びることができたのは、3割から5割前後だという。ということは、およそ450年間にアフリカから拉致されていった人びとの数は、1600万から3000万におよぶという。
  ある推計によれば、こうして大西洋を渡らされたアフリカ人全体に占める比率は、15世紀末から16世紀末までが数%、17世紀はじめから末までが16%、18世紀はじめから末までが50%以上、それ以後19世紀をつうじて28%前後だという。
  17世紀に奴隷貿易に占める地位においてポルトゥガルとエスパーニャがしだいに没落していくと、そこに割り込んでいったのは、ネーデルラント、イングランド、フランスなどだった。
  期間の長さといい、被害人口数といい、ナチズムの迫害を優に上回る。そういう恐ろしい犠牲の上に、世界経済におけるヨーロッパの優越・支配が成立したのだ。

  アフリカ人奴隷をアメリカに運び込んだ貿易体系は、「三角貿易(the triangular trade)」と呼ばれるシステムの一環をなしている。この貿易のトライアングルは、いくつもあって、互いに重なり合っていた。トライアングルの頂点は、ヨーロッパの港湾諸都市、北アメリカ、南アメリカ、カリブ海、大西洋諸島からなっていた。
  たとえば、ヨーロッパの諸港からは、工業製品(家具や繊維、金属・ガラス製品)や貨幣が積まれた船舶が出航する。その船舶は、直接にアメリカ大陸をめざし、そこで現地の産品と交換する場合もあろう。
  だが、なかには西アフリカに寄港して、そこで奴隷を積み込んで南北アメリカやカリブ海に向かう船舶もあった。目的地で奴隷を売り渡して儲けた金で、特産物を買い入れて、ヨーロッパに戻って高値で売り払い、利潤の一部で、西アフリカの部族長から奴隷を買い入れるさいの珍奇な財貨、貴金属を調達することもあるだろう。
  さて、奴隷にされたセンベたちは、武器や鞭で叩かれ脅されながら、アフリカ大陸の西部で何度か転売された。
  だいたいは、生き馬の目を抜くようにしたたかなヨーロッパ人商人が、アフリカ大西洋岸地帯のあちこちで奴隷を仕入れて、シエラレオーネや象牙海岸(コート・ディボワール)、ギニアなどの大きな奴隷取引市場に持ち込む。そこから、輸出貿易商人たちが奴隷の輸出拠点となる諸港に「荷物」を集荷する。そこから、大西洋を渡る船舶で、アメリカ大陸やカリブ海諸島に送られるのだ。
  ところが、18世紀半ばから末までにかけて、多くのヨーロッパ諸国家では、公式上は「奴隷貿易」が非合法になっていく。宗教上あるいは道徳上の理由が主要なものだ。そして、この宗教的・道徳的な理由を根拠に、最有力の艦隊=海軍力をもって、大西洋貿易体系に奴隷貿易の禁止と抑圧を持ち込んだのが、ヘゲモニーを掌握したブリテンだった。

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