この映画では、アン・ホルツがぺイスメイカ―を務めてマエストロの指揮を成功させた場面に関連するのだが……交響曲第9番の発表演奏会では、ベートーヴェン自身が指揮したのかどうかについては、論争があるという。
ベートーヴェン自身が指揮した――けれども、耳が聴こえなかったマエストロが成功したかどうか不安で聴衆の方を振り向けなかったところ、楽団員あるいは合唱団のメンバーが駆け寄って大成功を伝え、客席に向かって挨拶するように勧めたという伝説も残っている。
だが、それについての確たる証拠はないという。
もちろん、当時、メトロノームが発明されていてベートーヴェンも愛用してたので、リズムとテンポを一定にしておけば、マエストロ自身でも指揮はできたはずである。彼がリズム感やテンポ感が悪いはずないから。
とはいえ、その場での音響に応じて即興的に調和や調整をおこなうことができなかったのも確からしい。
彼の晩年頃(1820年代)には、ヨーロッパ中で音楽専門教育機関がいくつも設立され、楽器ごとの訓練コース――作曲や指揮のコース、楽器の種類ごとの演奏者の育成コースが組織され――作曲や楽器演奏などの個別分野の専門家を排出していた。つまり、それまでのように音楽家はもはや「何でも屋」ではなく、作曲の専門家とか特定の楽器を高度な技術で演奏する専門家が多数育成されるようになっていた。
だから、著名な作曲家の作品を演奏する管弦楽団を指揮する専門家も現れていたし、音楽家が過去の作品から名曲を選んで演奏指揮するという行動スタイルも出始めていたらしい。まだ例外的だったが、作曲と演奏指揮とが分業し始めていたらしい。
そうすると、第9番を別の指揮者が演奏指揮したという説にも、大いに信憑性がある。
この映画で、実際にオーケストラの演奏=音響を聴きながら指揮を誘導したのがアン・ホルツだったという設定は、誰が演奏したかについての、いわば「折衷案」である。
それにしても、誰が楽団を指揮したにしろ、当時のオーケストラの編成や大人数の合唱をうまく統合して第9番の演奏をベートーヴェンの思う通りにできたかについては、疑問が残る。
楽劇の専門家をめざしたリヒャルト・ヴァーグナーは、功成り遂げたのちに大がかりな編成のオーケストラと厳格な合唱訓練によって、「あるべき第9番」の演奏を実現したという。
ということからすれば、構築性を求める立場からは、ベートーヴェンの生前時代の演奏はかなり不満(不完全)だと評価されたということなるのではなかろうか。ベートーヴェン自身はすっかり耳が悪くなっていたので、自ら評価できないはずだ。
■ポスト・ベートーヴェン時代■
ずぶの門外漢の私が言えることは、次のとおりだ。
交響曲第9番の発表によって、交響曲の構築性と物語性は極点に達し、しかも合唱を組み込むことで「言葉による物語やイメイジのより明示的な発信」がもたらされることになった。楽器と声楽との統合によって音響だけによる構築性と物語性の表現方法はここで極点まで完成されてしまったということだ。
「音楽芸術の完成」?!
そうなると、それ以降に音楽的メッセイジを総合的かつ劇的に伝える方法としては、楽器と合唱との組み合わせを達成してしまった以上、あとは視覚を加えるしかないということになる。
ベートーヴェンの後に続く音楽家=作曲家にしてみれば、「やれやれベートーヴェンはえらいことをしてくれたものだ!」と嘆きたくもなろうというものだ。
器楽合奏(オーケストラ)の音楽としてさえ、構築性と体系性の極みに達したうえに、である。
ブラームスが最初の交響曲を完成=発表するまでに、20年もの熟成期間を要したのも、多分にベートーヴェンの業績が大きな壁として立ちはだかったからだという。というのも、ベートーヴェンの成果の上にいったい何を付け加え上積みできるかを、自らに問いかけ続けなければならないからだ。
ヴァーグナーは、交響曲作曲の道を――もうこれ以上を積み上げるものはないと見切って――自らに閉ざしてしまったという。楽劇への転身である。視覚的な効果による大仕かけで、多分に過剰演出と「はったり」をかませるしかなくなった。そして、劇的な成功を収めた。
彼らの姿は、ベートーヴェンの魅力に呪縛されたアンナ・ホルツの姿に重なる。
してみれば、写譜師アンナ・ホルツは、ベートーヴェン自身の内部の葛藤の人格的表現であるとともに、ベートーヴェンの後継者たちの悩みの人格的表現でもあるわけだ。こうして、公開直後にはすこぶる評判が悪かったこの映画作品の新たな見方が出てくるのだ。
ベートーヴェンの方法の魅力による呪縛は、クラシック音楽の世界ばかりでなく、映画音楽の世界でも、今現在にいたるまでずっと続いている。
| 前のページへ |