数日後、別れを告げて自分の荷物を持ち帰ろうと訪問したアンナをベートーヴェンは引き止めた。
「有能な君の助力が必要だ。それに、君の曲もまだ完成していないじゃないか。いっしょに完成させよう」
それまでの音楽の常識を打ち破ろうとするルートヴィヒだが、弦楽四重奏曲第13番の完結のさせ方については、ずっと悩み続けていた。だから、音楽の歴史に詳しく才能のあるアンナが必要なのだったのだ。
やはりベートーヴェンのもとで学びたいという欲求が強かったので、アンナは写譜師=助手を続けることにした。
とはいえ、アンナがそれまで「美しい音楽はこうあるべきだ」と考えていた曲想とはまったく異なる終楽章ののフーガ部分についてのベートーヴェンの発想にはついていけなかった。ずっと違和感を持ち続けていた。
だが、アンナとしてはせいいっぱいルートヴィヒの立場に立って、作曲を手伝った。
こうして、ベートーヴェンの自信作ができ上がった。
「俺様の音楽を聴け!」――「のだめカンタービレ」の千秋真一のようだ――という意気込みで、ベートーヴェンは発表演奏会に臨んだ。
何しろベートーヴェンの最新作だということで、皇帝フランツやヴィーンの大貴族や富裕市民たちが集まった。だが、アンナは、あの弦楽四重奏――とくにフーガ――は人びとに理解されるだろうか、という不安でいっぱいだった。
案の定、演奏の途中で席を立つ聴衆が出た。1人、2人、3人…と客席には空きができていった。
最終楽章のフーガが終わる頃には、観客は半分ほどに減っていた。
「私には難解で理解できん。調和が崩れている。これは失敗作だな」
皇帝フランツはこう言って席を立った。
惨憺たる有様を見たベートーヴェンは茫然自失に陥った。
「私が求めたものは間違いだったのか。私はもうおしまいだ」と嘆く。
アンナも声をかけた。
「私の考えはマエストロと違います」
この言葉が出た文脈が、私にはわからない。
弦楽四重奏、とくに大フーガの楽想そのものがアンナの音楽思想では理解できないものだ、という意味なのか。それとも、聴衆の好評を得る作品としては失敗かもしれないが、大フーガはやがて音楽史の転換をもたらすような評価を受けるようになるだろう、という意味なのか。それが不明だ。
私は、後者の意味ではないかと受け取っている。というのも、大フーガについては、作曲の途次でつとにアンナは違和感を訴えてきたのだから、ここで意見の相違を表明する意味はないからだ。
やがて(1926年)、アンナはベートーヴェンのもとを離れることになった。体調を崩したベートーヴェンは作曲活動を停止するからだ。
翌年、ベートーヴェンの病状は悪化し衰弱が進んで、明日をも知れぬ命となった。その知らせを受けたアンナ・ホルツが馬車を飛ばして駆けつける。そして、マエストロのいまわを看取ることになる。
アンナはようやくベートーヴェンの呪縛から解放されたようだ。ラストシーンで、アンナが明るい日差しに照らされた戸外の野辺を歩く姿が、それを象徴しているように見える。絶大な尊敬の対象であったがゆえに、強い影響を受けてきた、その相手から、その死によって解放されたということか。
弦楽四重奏曲第13番は、1826年3月にシュパンツィヒ四重奏団によって初演された。初演当日のアンコールでは終楽章の「大フーガ」は演奏されなかった。難解で不評だったこともあるが、おそらく当時の楽団員レヴェルではベートーヴェンと楽譜が要求するとおりには演奏できなかったからだと思う。
この大フーガでベートーヴェンは、彼自身の交響曲や前期のピアノソナタで確立した方法論――音楽の世界で構築性と体系性を表現する方法――を自ら解体して新たな方法論を試みたとようだ。だが、ベートーヴェンが先頃提示したばかりの構築性・体系性を具現する音楽手法をようやく音楽家や聴衆が理解し始めたばかりのところに、今度はそれを超え出る方法論を打ち出しても受け入れられるはずがなかった。
ベートーヴェンはその後、周囲の意見を取り入れ、弦楽四重奏曲13番の終楽章としてもっと理解しやすい軽快で構成が理解しやすいものに書き換えた。そして、19世紀をつうじて、大フーガの評価は惨々たるものであり続けた。
ところが、20世紀に演奏家のレヴェルが飛躍的に上昇して大フーガを演奏し切れるようになり、また、楽曲の調性や体系性をひとたび解体して音楽の構造や方法論を見直す動きが出た後になると、大フーガの評価は一挙に高まった。してみれば、ベートーヴェンの発想は時代を80年ほど先取りしていたということになる。
音楽の構成法を閑静させた作曲家であればこそ、その限界や転換の方向性にについても直観的なイメイジを抱いたのかもしれない。