しかも、貿易経路は、海上・水上でも、陸上でも、独立の政治体としての君侯領主たちや諸都市の支配圏域をいくつも横切っていた。つねにそれらの気紛れな軍事力や課税権の行使によって、脅かされていた。
そのうえ、武力をともなう掠奪や海賊行為は、多くの場合、近隣の領主や都市への賦課金の支払いと引き換えに「正当な稼業」として認められていた。
それらと渡り合いながら、自らの通商権と運搬貨物=商品・財貨の安全を守るためには、海運と商業は本来的に軍備と不可分だった。商業船舶は、はじめからしかるべき武装と兵員を備えた軍船として開発されていった。そして、交易のために冒険航海に乗り出す船舶の乗組員たちは、船乗りであるだけでなく、同時に商人でもあり、軍人=戦闘要員でもあった。
彼らは、寄港地で平和裏に交易や交渉が進まない場合には、武力による威嚇や攻撃によって交易を強制し、補給品を調達した。また、遭遇する敵対団体の船舶を襲撃して積荷=財貨を略奪することも、ごく正当な商行為として認められていた。
その意味では、ヴァイキングたちの冒険航海は、ことさらにそれほど暴力的な活動と見なされたわけではなかった。通商交易や植民・移住のための活動にすぎなかった。
寒冷で農耕に適した土地が少なかったために、早くから沿岸通商や植民によって富の獲得を求めたのだろう。とはいえ、彼らは各地で交易を強要し、拒まれたら掠奪まがいの行為をはたらいたので、恐れられてもいた。
冒険交易航海や植民活動を好むノルマンの伝統や慣習は、のちに彼らがフランク王国に定着してからも受け継がれ、彼らの一部はやがて地中海東部に進出していった。
10世紀から11世紀にかけて、北イタリアに商業と都市の成長が始まった頃、地中海東部では、ビザンティウムは繁栄の極をなしていた。
コンスタンティノポリスは、西アジア・南アジア・中央アジア方面との交易の結節点となり、富の巨大な集積地になっていた。アジアは当時、ヨーロッパよりもはるかに商業や製造業、科学や芸術・工芸が発達していた。
ヴェネツィア、ジェーノヴァ、フィレンツェなど、北イタリア諸都市の商人たちは競い合いながら、このビザンツ帝国の通商権益への割り込みをはかった。
だが、ビザンツや地中海の繁栄と富は、イタリア商人だけでなく、好戦的なノルマン人(フランク人騎士)をも引き寄せた。ノルマン系の騎士たちははじめは傭兵騎士として招かれたのだが、やがて彼らは独立の勢力として地中海東部に植民活動を繰り広げていった。
そして地中海全域にわたってイスラムの勢力が優勢だった。
こうして、ビザンティウムと地中海東部の通商権益(交易拠点)や軍事拠点、植民地や領地の獲得をめぐって、苛烈な闘争が展開された。
この勢力争いのなかでいち早く通商的=軍事的優位を確保したのはベネツィアの商人団体だった。だが、まもなく、そのほかの北イタリア諸都市、ジェーノヴァやフィレンツェの商人集団も進出し、彼らは、ビザンツ帝国版図における通商上・軍事上の勢力争いを繰り広げた。この通商競争をつうじて、地中海東部の交易ネットワークがつくり上げられていった。
この局面で、地中海東岸の聖地への巡礼や十字軍活動が活発化するのは、偶然ではない。十字軍の遠征によって樹立されたヨーロッパ人貴族の所領や支配圏域は、北イタリア商人の交易網・海運による補給に依存していた。
おりしも、アラビア半島からエジプト、北アフリカ、地中海西部にはイスラム勢力が支配地を拡大し、その軍事的圧力はレヴァント(シリア海岸)方面にもおよんでいた。イベリア半島はイスラムの太守王権が支配していたが、キリスト教諸侯によるレコンキスタ(領土再征服)が活発化していた。