一方、13世紀には、ヨーロッパの北辺でも、独特の遠距離貿易と海運が力強い発展を見せ始めていた。ライン河の河口一帯、フランデルン(ベルギー)・ネーデルラント(オランダ)を中心とする北海=バルト海貿易圏の成長だ。
なかでも、フランデルンとバルト海を結ぶ広大な交易ネットワークを組織化したのは、リューベック、ブレーメン、ハンブルク、ヴィスマルなどの北ドイツ諸都市を中心とするハンザ同盟の商人だった。
ハンザは、当初は個別の商人団体のあいだの同盟だったが、まもなく主権をもつ政治体としての諸都市のあいだの同盟になった。
やがて、フランデルン・ネーデルラントでは商工業が飛躍的に発達して、西ヨーロッパの貿易・金融・製造業の中心地になっていった。この地方は、ラインラントやイール・ドゥ・フランス、シャンパーニュ地方とも結びついていた。
ハンザは、この地方を中心にして、東はロシアの西端、スウェーデン、ラトヴィア、エストニア、ポーランド、ポメラニアなどから、西はイングランド、フランス西部、イベリア北部にまでおよぶ交易網を組織化していった。
ところが、豊かなフランデルン・ネーデルラントは、近隣の有力君侯・領主たちから狙われていた。パリの王権もその地に封主権をおよぼそうとしていた。
だが、フランス王家から分かれたブルゴーニュ公家が、フランス東部からドイツ西部を支配しながら、ブラバント(ベルギー)からホラント(オランダ)に支配地を拡大し、さらにフランデルン全域までも飲み込もうとしていた。
この時期に、旧フランク王国で最有力の君侯、アンジュー伯=ノルマディ公(フランスの西半分を支配)は、辺境のイングランドの王として君臨しながら、パリ周辺の弱小領主になりさがっていたフランス王家から王位を簒奪しようとして、闘争を挑んでいた。もちろん、ロンドンの対岸にあるフランデルンへの支配をも狙っていた。
こうして、フランス王国は分裂し、領主諸侯は、いくつもの陣営に分裂して離合集散と対抗を繰り返していた。
百年戦争はこのような地政学的環境のもとで発生展開する。それはノルマンディー侯の属領イングランドを巻き込んだフランス諸侯(同盟)のあいだの王権争奪であって、けっして「英仏戦争」ではなかった。
この戦争に敗北したノルマンディ=アンジュウ王権(プランタジュネ家)は、フランスの領地をすっかり失ったために、イングランドにこもって自立的な王権形成をめざすしかなくなったのだ。
しかし皮肉なことに、それが数世紀のちにイングランドの世界覇権の土台となるのだった。
地中海東部でのイスラム勢力の拡張とともに、北イタリア諸都市の商人たちは、貿易網の中心を地中海の西部に移し、そしてさらに北の繁栄の極、フランデルン・ネーデルラントに向けて貿易ネットワークや交易拠点を広げていった。
イタリアの冒険的商人たちは、地中海から陸地沿いにイベリア半島を回航して北西ヨーロッパにいたる航路・通商路を開拓した。その頃、イベリア(ヒスパニア)ではイスラム権力が衰退していった。
イタリア商人は、ハンザを押しのけて、北西ヨーロッパの貿易と金融で最優位を確保していった。イタリア人たちは、ヨーロッパ各地を結ぶ金融・送金経路をも組織化していた。
おりしも、その中継地帯であるイベリア半島では、レコンキスタによってイスラムを追い散らしながらいくつかの強大ななキリスト教王権が成長していた。なかでもレオン王国とカスティーリャ王国が連合し、アラゴン王国とカタルーニャ王国が連合して、強大な王権を打ち立てた。
なかでもアラゴン=カタルーニャ王権とバルセローナの商人は同盟して地中海西部に勢力を拡張していた。
15世紀末になると、カスティーリャ王権とポルトゥガル王権は、北イタリア商人の支援を受けながら、北西アフリカ沿岸方面から進んで、アメリカ大陸にまでおよぶ大西洋航路、さらにはアフリカ南端を回航するインド洋航路を発見・開拓した。
2つの王権は、南北アメリカ大陸沿岸部と西大西洋に多くの植民地を建設し、やがてそれらは広大な「植民地帝国」をなすようになった。ポルトゥガルはさらに、インド洋方面(ジャワから東アフリカまで)にも、あまたの通商拠点と軍事拠点を打ち立てていった。